「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われる高松城は、日本三大水城の一つ(残り二つは伊予今治城、豊前中津城)とされる。堀には海水が引き込まれ、鯛が泳いでいるという豪華さだ。
高松市玉藻町に国指定重文の「高松城 旧東之丸艮(うしとら)櫓」がある。延宝五年(1677)の築造である。
この艮櫓はもと、その名のとおり「丑寅」つまり城地の北東隅にあった。
これが「艮櫓跡」である。
ここにあった艮櫓が、昭和42年に旧太鼓櫓跡に移築された。
大きな櫓としてはもう一つ、「高松城 北之丸月見櫓」がある。やはり国指定重文で、延宝四年(1676)の築造である。
往時、月見櫓は海に面しており、まさに「城が見えます波の上」だったろう。艮櫓や月見櫓が築かれた延宝年間は、高松松平家二代目の頼常(よりつね)の時代だった。頼常はあの有名な水戸黄門(徳川光圀)の長男であることから、高松藩は親藩として高い家格を誇った。
天守は明治十七年まであったが、老朽化により解体されてしまった。上の階が一つ下の階よりも大きい「唐造(からづくり)」という珍しい構造で、「南蛮造(なんばんづくり)」とも呼ばれる。
その天守を復元しようと高松市が意気込んでいる。ウェブ上で公開されている明治十五年の古写真を見ると、ないものねだりする気持ちはよく分かる。文化庁を説得するだけの史料が不足しているようだが、果たして水城の威容は取り戻せるだろうか。
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