豊臣は大坂の陣で滅び、子孫は残っていない。これは誤解だ。滅んだのは羽柴という「名字」の宗家であって、豊臣という「本姓」を称する大名は江戸時代も続いていた。その大名とは、羽柴秀吉の正室おねの実家、木下家である。この家は杉原を称していたが、秀吉の出世に伴い木下を名乗り、さらに豊臣朝臣を賜わったのである。
岡山市北区足守の近水園(おみずえん)に「豊臣利恭(とよとみとしやす)君碑」がある。明治28年の建碑で、題額は旧岡山藩主池田章政である。
豊臣利恭こと木下利恭は足守藩第11代、最後の藩主である。緒方洪庵を招いて足守除痘館を開設したのも、この利恭であった。碑文には、そんな開明的な内容はなく、「明治戊辰之役出北越、朝廷賞其勲賜金若干」など、勤王の事績が記されている。華族としては子爵に叙された。
園内の池の鶴島に「木下利玄(りげん)歌碑」がある。利玄(としはる)は利恭の弟の子だが、子がなかった利恭の死後、家督を継承することとなった。白樺派の歌人として著名で、その平易で写実的な歌風は今も人気である。
『白樺』の同人となったのは、武者小路実篤と学習院で同級生だったことが関係しているだろう。木下家も武者小路家も子爵である。利玄も実篤も東京帝国大学に進んだ。血筋もよければ頭脳も抜群だった。碑には利玄の歌が刻まれている。
花ひらをひろけつかれしおとろへに牡丹おもたく萼をはなるゝ 利玄
「離れる」を修飾するのは一般的に、時間を表す「ゆっくりと」「突然」などが適当だ。「重たく」離れるというのは、「ゆっくりと」離れるのイメージで、牡丹の花の質感をも含めた文学的表現である。他に四四調という独特のリズムも彼の特色で、「利玄調」と呼ばれている。
近水園に隣接して県指定史跡の「木下利玄生家」がある。嘉永五年(1852)に建てられ、利玄はこの家に明治十九年一月一日に生まれた。利恭逝去による家督相続に伴い、利玄は5歳で上京することとなった。地元の小学校では利玄を地元の偉人と位置付けて、毎年学習を続けているそうだ。
この木下家は、朝廷が秀吉を関白に任命した文書など、貴重な史料を今に伝えている。昨日、国の文化審議会はこの「豊臣家文書」を重要文化財に指定するよう文部科学大臣に答申した。豊臣の末裔として関係文書を守ってこられた木下家に敬意を表したい。
地元に学べば肌感覚で実感でき教育としては最善だと思います。足守の方々は地元を誇りに思っていらっしゃいますね。
投稿情報: 玉山 | 2019/03/21 19:29
足守小には、利玄や洪庵についての学習があるんです。あと、洪庵作文や利玄作文などを通して、地域を想う心を育んだりしています。
次は誰かな?
投稿情報: 吉岡 | 2019/03/20 22:02