松尾芭蕉は人知れず流浪する孤独な俳人かと思ったら、生前から大人気の俳諧師であった。この点は以前に紹介した漂泊の俳人、尾崎放哉とは異なる。本日は、芭蕉の人気ぶりを示す句碑を紹介することとしよう。
愛西市佐屋町宅地(たくち)に「水鶏塚(くいなづか)」がある。市指定の史跡である。
水鶏(くいな)というのは、ヒクイナという赤い鳥で、夏の季語とされている。この地で芭蕉が詠んだ句にちなんで「水鶏塚」という。どのような由来があるのか、説明板を読んでみよう。
水鶏塚由来記
元禄七年五月芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ薮のほとりで木の間がくれに水鶏(くひな)が鳴いた。翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集り千載不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が
水鶏鳴と人の云へばや佐屋泊 はせを
である。翁逝って四十余年後さきに坐を共にした人達により、翁がうたったこの現地でそのときうたった句を石にきざみこの碑がたてられた。とき正に享保二十年五月十二日のことである。
昭和三十五年大字佐屋故黒宮庸氏の御遺志によってこの水鶏塚(土地共)は黒宮家から佐屋町へ寄贈された。
昭和六十年三月二十六日 佐屋町文化財指定
佐屋町教育委員会
元禄七年(1694)、江戸で『おくのほそ道』を完成させた芭蕉は、5月11日に帰郷の旅に発った。大井川出水で4日間足止めを食らったものの、おおむね順調に進んで同月22日に名古屋に着いた。
名古屋でゆったり過ごし、佐屋に向かって出発したのが25日のこと。多くの旅人がたどるのは熱海から七里の渡しで桑名に到るルートだが、佐屋路から三里の渡しで桑名に到る迂回路「佐屋廻り」もあった。
愛西市佐屋町亥新田(いしんでん)に「東海道佐屋路 佐屋三里之渡趾」と刻まれた石碑がある。ここから佐屋川や木曽川を舟で進む。七里の渡しの海上ルートに比べると、難破や船酔いのリスクを避けることができた。
渡し場だというが、まったく面影がない。佐屋川は土砂の堆積で洪水を起こしやすくなり、明治末に廃川となった。江戸時代には東西交通の要衝として賑わい、現在は名鉄で結ばれる名古屋のベッドタウンとして人気である。
さて、話を芭蕉に戻そう。芭蕉は25日、佐屋御殿という将軍家の宿泊施設を管理する山田庄左衛門の邸に泊まった。山田が「ここはヒクイナがコンコンと鳴いて風情がありますよ。泊まっていかれたらどうですか」と誘ったのである。芭蕉来訪を聞いた人も多く集まって、その日は盛大な句会となった。『笈日記』には次のように記されている。
隠士山田氏の亭にとヾめられて
水鶏鳴と人の云へばや佐屋泊 はせを
ヒクイナが鳴くというので、今晩は佐屋に泊まる。ここで歓待されたことは、いついつまでも忘れることはないだろう。そんな思いで詠じたに違いない。おかげで佐屋は交通面でも文学面でも有名になった。
時の流れは景色も一変させてしまう。石碑がなければ何も気付かないような場所だが、芭蕉翁の足跡を確かめることができた。人の数だけドラマがあることを思えば、記録に残らぬさまざまなエピソードがあったことだろう。佐屋は人の思いも行き交う交叉点であった。
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