古代日本で国ごとに置かれた寺院といえば、国分寺と国分尼寺がよく知られている。鎮護国家思想を具現化しようとする聖武天皇の発願で建立された。ちなみに安芸国では、東広島市西条町吉行の「史跡安芸国分寺跡(塔跡)」がその場所である。
神社では、諸国に一宮や総社がある。安芸一宮は有名な厳島神社であり、安芸総社は安芸郡府中町本町三丁目の総社跡児童遊園である。一宮は社格の高い神社であり、総社は国司の神社巡拝を手っ取り早く済まそうという意図で設けられた。
寺院では、安国寺も国ごとに置かれた。戦死者の追善供養にと足利尊氏が発願した。このブログでも出雲安国寺で取材して記事を書いたことがある。本日は安芸安国寺とこの寺ゆかりの怪僧の紹介である。
広島市東区牛田新町三丁目に美しすぎる中世寺院「不動院金堂」がある。広島市唯一の国宝であり、天文九年(1540)ごろの建立と推定されている。
不動院の正式名称は「新日山安国寺不動院」といい、尊氏が置いた安国寺の一つと考えられている。
金堂の前にある「不動院楼門」も大迫力の建造物で、こちらは国指定重要文化財である。
境内の墓地には「武田刑部少輔之墓」がある。ここは安芸の名族武田氏の菩提寺である。確かではないが「武田刑部少輔」が武田光和であるとすれば、安芸武田氏8代目で銀山城主、近隣勢力では尼子氏と親しかった。9代目の信実が天文十年(1541)に大内・毛利軍に敗れ、安芸武田氏は滅亡する。
すぐ近くに「太閤豊臣秀吉公の遺髪の墓」がある。なぜ不動院に秀吉ゆかりの塚があるのだろうか。
墓地の奥に「中興開山恵瓊の墓」がある。
毛利氏の外交僧として知られ、秀吉の知遇を得た安国寺恵瓊である。恵瓊の事績について、説明板では次のように記されている。
戦国時代の大永年間(1521~27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
当寺を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。
恵瓊の俗姓は武田氏、安芸武田氏の一族であった。一族ゆかりの寺院を復興したわけだ。禅僧としての名前は瑶甫恵瓊(ようほえけい)である。安国寺恵瓊の「安国寺」はここ不動院のことで、彼もあの美しすぎる国宝金堂で祈ったことだろう。
恵瓊の慧眼を表すエピソードを紹介して擱筆することとしよう。天正元年(1573)、毛利家の家臣宛の書状で次のように記しているのだ。『吉川家文書』610より
信長之代五年三年者可被持候。明年辺者公家などに可被成候かと見及申候。左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候。
信長の世は3年から5年は続き、来年くらいには公家になるんじゃないでしょうか。けれども、どこかで大コケをするでしょうね。注目すべきは藤吉郎秀吉という男です。何を根拠にそう書いたのか分からぬが、予言的中である。怪僧恵瓊のイメージは、このあたりから生じているようだ。
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