さすがは世界遺産である。浄土とは此処のことか。海に浮かぶように見える社殿を写真ではよく見るが、潮が引くと風景は一変する。干満の差は4mにもなるという。潮干狩りに来た人は大喜びだ。自然と人為との織り成す貴重な文化遺産である。
普通なら赤い大鳥居がそこに見えたはずだ。貴重な観光シーズンにこれでは、と残念がる必要はない。むしろこんな風景こそ珍しい。4月3日の強風によって屋根の一部が破損したので修理中とのことだった。まさに自然と人の営みを示している。平成24年のゴールデンウィークのことであった。
どこだとも書いていなかった。安芸の宮島である。廿日市市宮島町の厳島神社の境内に「清盛神社」がある。
なにせ昨年は大河ドラマの影響で空前の清盛ブーム、というのは言い過ぎだが、少なくとも私の中ではそうだった。見よ、宮島SAにある顔ハメを。神官が笏ではなくて、しゃもじを持っている。姫にも人面鹿にもなることができる。
そんなことは、どうでもいい。清盛が若い。坊主ではない。「清盛」ではなく「義経」と書いていても、へぇ、そうなんだ、と思ってしまう。これまで清盛は六波羅蜜寺の像のイメージが強すぎた。坊主イメージから抜け出す必要があった。そういう意味でこの人物造形は優れている。
平清盛公を祭神とする清盛神社の歴史はそれほど古くない。説明板を読んでみよう。
平清盛公没後七七〇年を期にその功績を顕彰し昭和二十九年三翁神社から御祭神を遷座創建された。
例祭日は3月20日で、この日は太陽暦で清盛の命日にあたる。三翁(さんのう)神社は山王信仰に関わりが深い。山王信仰の比叡山と清盛もまた切っても切れない関係にある。厳島神社が今日あるのは清盛公あってこそと言っても過言ではない。この地で御祭神とされるのは宜なるかなである。
清盛だけではない。あの日本第一の大天狗の姿も厳島にあった。
社殿の裏に「後白河法皇御行幸松」がある。読んでみよう。
承安四年(一一七四)後白河法皇が参詣された折お手植えされた松の遺木である。明治初期に切り倒された。
法皇は建春門院とともに厳島に御幸した。供奉したのは平清盛。それはある意味、平氏政権の頂点であった。
大願寺境内に「小松内大臣平重盛公御手植松」がある。読んでみよう。
重盛公(清盛公長男)厳島弁財天神徳霊験に感服し国家安泰家門隆盛祈願の為参籠の際に境内にお手植えになられた老松
宮島観光協会HP内の「宮島歴史略年表」によると、安元2年(1176)10月14日に、平清盛・時子・中宮徳子(建礼門院)・重盛等平家一門が社参し千僧供養を行ったという。父清盛と主君後白河との間で「忠ならんと欲すれば孝ならず」と苦しみを吐いた重盛も、確かにこの地を踏んでいた。
重盛が拝んだ大願寺の弁財天は、江ノ島、竹生島とともに日本三弁財天に数えられている。弁財天は厳島神社の御祭神であるイチキシマヒメと同一視されてきた。海や水にかかわりの深い神仏である。
海に生まれ海に滅んだ平氏。彼らが後世に残したのは、精神面では盛者必衰である。あれほどに栄えた平氏も、厳島の栄華から10年ほどで滅び去ってしまった。しかし、貴族社会最後のVIPたちが訪れた厳島神社は、今も浄土と見まがうばかりの輝きを放っている。
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