日本三大奇襲戦とは、織田信長の桶狭間の戦い、源義経の鵯越の戦い、そして毛利元就の厳島合戦である。そのように宮島観光協会のサイトには書いてある。義経の代わりに後北条氏の河越夜戦を入れるのもよく見かける。世界遺産のある平和で神聖な厳島で、かつて凄惨な戦いがあった。
廿日市市宮島町に「厳島神社五重塔」がある。高さは27m余りである。
まずはこの塔について、隣の「千畳閣」の入場チケットに印刷されている解説を読んでみよう。
隣りの重要文化財厳島神社五重塔は、応永十四年(一四〇七)建立、特徴は、塔の中央にある心柱が初重の天井上で止まっていること、全国に五棟ある。
心柱の様式は時代順に、掘立式、地上式、梁上式、懸垂式と変化していく。このうち、今回の五重塔は梁上式ということになろう。心柱のない1階には須弥壇があり、かつては仏像が安置されていた。全国に五例あるそうだが、他には木津川市の海住山寺(かいじゅうせんじ)五重塔、福山市の明王院五重塔、鶴岡市の羽黒山五重塔、大田区の池上本門寺五重塔が同形式である。
新緑に映える美しい厳島の五重塔は、日本三大奇襲戦の一つ、厳島合戦の目撃者であった。塔のある岡は「塔の岡」と呼ばれる古戦場でもある。説明板を読んでみよう。
五重の塔があるのでこの丘を塔の岡という。毛利元就(もうりもとなり)が陶晴賢(すえはるかた)を襲撃した厳島合戦の古戦場である。弘治元年(1555)9月21日晴賢は大軍を率いて上陸し、ここに本陣を構え、毛利方の宮尾(みやのお)城を攻撃した。元就は主力をもって、同30日夜暴風雨をついて包が浦に上陸し、翌朝未明博奕尾(ばくちお)を越えて襲いかかり陶軍は不意を突かれて大敗した。この合戦で内海地域の制海権は毛利の手に移った。
要するに毛利軍は敵の本陣に背後から襲いかかり、陶軍は大混乱のうちに敗走したのである。陶軍二万に対して、毛利軍は約四千であり、毛利軍は四千七百余の首級を獲得したという。寡兵をもって大軍を制した見事な戦いである。だが、神域で多くの血が流されたのだ。弘治元年とあるが、この時点では天文24年である。
この岡には「龍髯(りゅうぜん)の松」という姿の美しい二本のクロマツがある。寛政11年(1799)頃に旅館の庭を飾るよう植えられたものだという。
戦国の世を見た五重塔と天下泰平の象徴である松。厳島の明と暗の舞台となった塔の岡。ここにはもう一つ重要な史跡があり、それは権力者の夢の跡ようにも思える。その話は次回にすることとしよう。
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