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はしか感染拡大が過去10年で最悪のペースだという。原因となる麻疹ウイルスは、同じ空間で過ごすだけでも感染するという強烈さだ。予防方法はただ一つ、予防接種である。はしかの予防接種は昭和41年に始まった。
もっと長い歴史があるのは天然痘の予防接種で、今から170年前のこと。本日は、種痘の普及という歴史的役割を果たした医師を紹介する。
岡山市北区足守に「緒方洪庵誕生地」があり、県の史跡に指定されている。
洪庵は文化七年(1810)、足守藩士佐伯家に生まれた。ここは生家の跡地である。緒方姓は、源平時代に活躍した緒方惟栄(おがたこれよし)の末裔であることに由来する。洪庵も元服後に惟彰(これあき)と名乗っている。
「産湯の井」が残されている。生家は廃藩後に取り払われ、畑となっていた。洪庵顕彰の機運が高まるのは、それからずいぶん後のことである。
昭和二年に吉備郡医師会が「洪庵緒方先生碑」を建立した。裏面には先生の事蹟を記した碑文が刻まれている。そこには次のような一節がある。
初メ居ヲ大阪ニ卜シ刀圭ノ業ニ従フヤ常ニ済⽣ヲ念トシ種痘術ノ普及ニ努メ専ラ⼒ヲ育英ニ注キ書ヲ著シ学ヲ講ス
文政八年(1825)に蔵屋敷留守居役となった父に伴って大坂に出たものの、医学の道を志し翌年に蘭方医の中天游(なかてんゆう)の門に入った。医者となってからは「命を救う」ことをモットーとし、種痘術の普及に努めたことのほか、天保九年(1838)に適塾を開いて後進の育成に力を注いだ。
とりわけ種痘を普及させたことは医学史上特筆に値する。ジェンナーの牛痘法が我が国に伝わったのは嘉永二年(1849)のこと。オランダ商館医モーニッケがバタヴィアから取り寄せた痘痂(かさぶた)によって種痘に成功したのである。この年のうちに長崎から佐賀次いで江戸へ、長崎から京都次いで大坂へと瞬く間に普及したのである。
洪庵が大坂で除痘館を開いたのは嘉永二年11月7日であった。翌三年(1850)には郷里足守に除痘館を開設し、ここから津山へと普及していった。江戸にお玉ヶ池種痘所ができたのは安政五年(1858)である。この種痘所は東京大学医学部の源流の一つとなった。種痘の普及は近代医学の始まりと評価してよいだろう。
1980年にWHOが天然痘の根絶を宣言した。備中足守で天然痘の根絶が始まってから130年後のことである。そして、今年は種痘が普及してから170年に当たる。医学は一歩ずつ一歩ずつ歩みを進めてきた。緒方洪庵の一歩は日本医学史に残る大きな足跡であった。
いつもありがとうございます。
今回調べてみて、足守は医学の先進地だったことが分かりました。やはり洪庵という偉人を輩出したおかげですね。
投稿情報: 玉山 | 2019/03/19 21:29
何度か学校から歩いて行きました。こんな所に… って所にありますよね。いきなり現れる感じです。こんな方が岡山に。そして足守にゆかりがあるなんて感動でした。
投稿情報: 吉岡 | 2019/03/18 21:56