日本人はコロンブスが大好きだ。歴史教科書で大航海時代の幕を開けた人物として全国民が学んでいる。志摩スペイン村のコロンブス広場にはコロンブス像が建てられている。「コロンブスの卵」という慣用句は、最初に行うことの至難さという本来の意味ではなく、ゆで卵を立てる遊びだと思っている。
本日はコロンブスと呼ばれた日本人を紹介しよう。
愛西市元赤目町に「マルジマ・コロンブスの碑」がある。
市指定の歴史資料で、名称は「北米移民の先駆者“マルジマ コロンブス”の碑 附 銘板」という観光パンフレットのような表現だ。
石碑をよく見ると「MARUJIMA COLUMBUS」と刻まれている。外国人のようだが、日本人である。説明板を読んでみよう。
マルジマ・コロンブスこと山田芳男(本名八百蔵、安政三年八開村二子新田で出生)によって愛知北米移民の端緒が開かれた。その恩顧を受けた人達が山田芳男の功績を称えるため、大正十四年九月丸島地内にコロンブスの碑を建立した。
山田は明治十四年千島海域でラッコ猟に従事中遭難し、米国の捕鯨船に救助されてサンフランシスコに上陸した。同地で富豪のヘンドルと出会い、サクラメントの農園に就労した。ヘンドルは山田の有能で誠実な働きぶりをみて、日本人労働者の斡旋を依頼した。
明治二十二年七月山田は一時帰郷し、故郷の丸島を中心に北米への移民勧誘を行い、十名の同行者を得て同年十月アメリカに渡った。これを契機として、八開村をはじめ近隣の町村より多くの若者がカリフォルニア州へ移民した。彼らは郷里の経済のみならず、社会の発展に大きく貢献した。
コロンブスの碑は、平成十六年八開村教育委員会より文化財の指定を受け、村の財産として後世に伝えられることとなった。石碑は県道拡幅工事によって移転を余機なくされ、八開村の計らいによりこの地に移築した。
この石碑が山田芳男をはじめ、国際交流の魁として海外に雄飛していった郷土の先人たちの偉業を偲ぶ録になれば幸いである。
平成十六年九月吉日
マルジマ・コロンブス顕彰碑保存会
確かに「北米移民の先駆者」だと分かる。とはいえ、新大陸を発見したわけではなく、日本人として初めてアメリカに到達したわけでもない。なのに、なぜコロンブスと呼ばれるのだろうか。碑文は漢文のためすぐに理解できないが、よく見ると次のように刻まれている。
昔者古倫波斯発見其大陸今君開拓其地
むかしコロンブスがアメリカを発見したが、いま君がその地を開拓した。発見そして開拓、二人は並び称される偉業を成し遂げたのである。ちなみに、建碑の時期は「大正十四年九月」とあるが、碑には「大正拾貮年九月」と刻まれている。
この時代、コロンブスは日本人の誰もが知っている外国人の一人であった。小学校で修身の時間に習ったのである。大正二年の国定教科書『尋常小学修身書 巻五 児童用』第十五課「忍耐」には、次のように記されている。
かくて大西洋を西へ西へと進みしが、日数経れども、陸地の影だに見えざれば、水夫は大いに恐をいだき、引返さんことをコロンブスにせまり、其のきかざるを見て、コロンブスを海中におとしいれんとはかりし者さへあるに至れり。忍耐の心強きコロンブスの事なればさわげる水夫を或はなぐさめ、或はおどし、百方艱苦をしのぎて進み行きしが、七十日の後遂に新しき島を発見せり。
和製コロンブス山田芳男とて、堪え難きを堪えなけれならない苦労は山ほどあっただろう。これを忍び耐えぬいて北米移民の道を切り開いていった。移民者からの送金で、この地域の経済は大いに潤ったという。人々が山田の姿をコロンブスと重ねたのも自然な流れであった。
実は近年、アメリカにおけるコロンブスの歴史的評価は分が悪い。ロサンゼルス市では10月の「コロンブス・デー」をやめ、「先住民の日」と改めたそうだ。先住民から見れば、コロンブスは招かれざる客に他ならないからだ。
うちの母の実家の親戚にもブラジルへ移民した人がいたと聞く。これからの我が国は、外国からの移民を受け入れることはあっても、日本人が移民することはないだろう。コロンブスの新大陸発見も北米移民も遠い過去になっていく。「マルジマ・コロンブス」は、明治大正という時代を映す鏡といえるだろう。
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