「出たっ」初めて牛久大仏を見たとき、思わず声を発した。巨大仏のイメージが強烈な牛久市に、かつて牛久藩があったことはあまり知られていない。石高1万石の小藩ながら、大名山口氏が幕末まで一貫して治めるという安定感。本日は牛久藩の藩祖、山口重政が出世のチャンスをつかんだ城を訪ねることとしよう。
愛西市大野町郷前に「大野城址」と刻まれた石碑がある。市指定の史跡である。
城跡といっても、それらしい雰囲気はまったくない。平地に石碑があるだけだ。周囲の低湿地を活用して守りを固めていたのであろう。どのような戦いがあったのか、愛西市教育委員会の説明板を読んでみよう。
大野城(砦)は戦国時代、蟹江城の支城のひとつとして築かれ、天正一二年(一五八四)四月、秀吉対家康の「小牧・長久手の戦い」の前哨戦がこの地で起こった「蟹江合戦」です。時の大野城主山口重政は、母を人質にとられながらも徳川方に味方し敵を撃破、徳川の天下取りの基礎をひらきました。昭和五四年(一九八〇)に城址に碑が建てられました。
両雄の直接対決、小牧・長久手の戦いは、天正十二年四月の大規模な戦闘後、膠着状態に陥っていた。秀吉方の滝川一益はこの状況を打開するため、デルタ地帯の拠点、蟹江城を攻略することとした。この城は家康と同盟を組む織田信雄方の佐久間信栄が守る城であった。大野城は蟹江城の支城の一つで、佐久間信栄の臣、山口重政が守っていた。
周囲の城が落ちるなか、重政は上記のように大野城を死守したのである。そのことが「徳川の天下取りの基礎」となったとは少々飛躍しすぎているようだが、蟹江合戦が徳川方の勝利に終わったことで、家康の立場が有利になったことは確かだ。
少なくとも山口氏が近世には大名家として、明治以後は子爵家として栄えたのも、ひとえに大野城の守将、山口重政が母を人質にとられながらも節を曲げなかったおかげである。やはり持つべきは、偉大な先祖なのだろうか。
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