「以後よく伝わるキリスト教」の語呂合わせのとおり、ザビエル以来キリスト教は宣教師の布教や領主の支援でよく広まり、我が国各地にキリシタンの町が存在していた。本日は、キリシタン大名のうち最も信仰心の強かった高山右近の城下町を訪ねよう。
明石市新明町に「船上(ふなげ)城跡」がある。キリシタンを話題にしているのに鳥居が目立つが、これは正一位古城大明神である。城らしい遺構はない。
古城に対する新しい城とは、今年築城400年の明石城のことである。初代明石藩主の小笠原忠真(ただざね)は、元和五年(1619)に新城が完成するまでは、船上城を居城としていた。
この地に城下町を有する近世城郭を整えたのは、天正十三年(1585)に秀吉の命により入城した高山右近である。明石海峡を防衛ラインとする戦略上の要に位置付けられていた。町のようすについては、神戸新聞社明石総局編『あかし昔ばなし』が、次のように伝えている。
右近は明石川の西、河口に近い船上城にはいり、さっそくキリスト教を広めはじめました。城の近くの宝蔵寺は教会堂に変わり、青い目をした宣教師たちがたくさん来て、キリストの教えを説きました。領民たちは珍しい外国の服装やビードロ(ガラス)望遠鏡などの品物にびっくりし、知らずしらずに信者になっていきました。
右近のもとで国際文化都市が出現した。宣教師が教えを説いた協会は、もと宝蔵寺という寺院だった。この宝蔵寺、今も市内に存続している。
明石市林二丁目の宝蔵寺の本堂前に、遺跡「毘沙門天とかくれキリシタン十字架」と記された標柱がある。
標注には次のような説明もある。
昭和になり、宝蔵寺でかくれキリシタン十字架発見。
これこそ船下城下でキリスト教信仰が盛んだったことの証左であろう。ユスト高山右近は一昨年に列福され、その名は世界に知られている。明石にわずかに残る史跡と遺物をよすがに、キリシタンの楽園を語り継ぎたいと思う。
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