「児童福祉の父」と呼ばれる石井十次は、明治24年(1891)、濃尾地震の震災孤児93人を自らの孤児院に受け入れた。この時代からさらに千百年さかのぼると、「児童福祉の母」ともいうべき先駆者を見つけることができる。『日本後紀』巻八延暦十八年二月乙未条より
宝字八年大保恵美忍勝叛逆伏誅。連及当斬者三百七十五人。法均切諌。天皇納之。減死刑以処流徒。乱止之後。民苦飢疫。棄子草間。遣人収養。得八十三児。同名養子。賜葛木首。
法均こと和気広虫(わけのひろむし)は、天平宝字8年(764)、恵美押勝の乱後の飢疫で孤児になった83人を養い、葛木首(かつらぎのおびと)の姓を与えたのである。その広虫は一時期、流謫の憂目に遭っていた。
三原市八幡町の御調八幡宮の前に「贈正三位和気廣蟲刀自謫居之跡」と刻まれた石碑がある。昭和32年4月に建てられた。
和気広虫は、神護景雲三年(769)における道鏡の皇位簒奪を阻んだ和気清麻呂のお姉さんである。出家して法均という名で称徳天皇に仕えた。道鏡事件後も朝廷からの信任厚く、延暦十八年(799)に70歳で亡くなった際には、正三位が贈られている。
このような立派な女性が、なぜ備後の地に流されたのだろうか。その経緯は当時の正史『続日本紀』に記録されている。巻三十神護景雲三年九月己丑条を読んでみよう。
始め大宰主神(だざいのかんづかさ)習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)、旨を希(こひねが)ひて、方(まさ)に道鏡に媚び事(つか)ふ。因(より)て八幡の神教と矯(いつは)りて言(いは)く、『道鏡をして皇位に即(つ)かしめば、天下太平ならん』と。道鏡これを聞きて、深く喜びて自負す。
大宰府の役人、習宜阿曾麻呂は道鏡の権勢に媚びへつらい、宇佐神宮の八幡神の神託と偽って「道鏡を皇位につければ天下太平となるであろう」と伝えてきた。道鏡はこれを聞いて、大いに喜び誇りに思った。
天皇、清麻呂を床下に召し勅して曰く、『昨夜夢見るに、八幡の神使来りて云ふ。大神事を奏せしめんがために、尼法均を請ひたまふ。宜(よろし)く汝清麻呂、相代(あひかはり)て往(いき)て彼(か)の神命を聴け』と。発するに臨み、道鏡清麻呂に語りて曰く、『大神の使を請う所以(ゆえん)は、蓋(けだ)し我の即位の事を告げんが為なり』と。因(より)て重く募るに官爵を以てす。
称徳女帝は和気清麻呂を寝所に召し、「昨夜、夢の中で八幡神のお使いが、神様が伝えたいことがあるので法均尼を遣わすよう告げてきました。清麻呂、おまえは姉の代わりに宇佐に行き、神様のお言葉を聞いてまいれ」と言った。出発にあたって道鏡は清麻呂に「八幡神が使者を要請したのは、おそらく私の即位を告げるためであろう」と言い、出世させることを約束した。
清麻呂、行(いき)て神宮に詣(まう)づ。大神託宣して曰く、『我が国家開闢より以来(このかた)、君臣定(さだま)りぬ。臣を以て君となること、未だこれあらずなり。天之日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人、宜しく早く掃除(そうじょ)すべし』と。
清麻呂は宇佐神宮に参拝した。八幡神から次のようなお告げがあった。
「我が国は始まって以来、君主と臣下の区別は定まっている。臣下が君主となったことは、いまだかつてない。皇位には必ず皇族をつけよ。道理から外れたことを主張する輩を早く追放するがよい」
清麻呂来り帰て、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒りて、清麻呂が本官を解き、出(いだ)して因幡の員外の介となす。未だ任所にゆかず。尋(つい)で詔有り。除名し大隅に配す。其の姉法均は還俗して備後に配す。
清麻呂は帰京して、八幡神のお告げのとおりに報告した。道鏡は大いに怒って、清麻呂を罷免し因幡国の役人として追放しようとした。任国に行かないうちに、大隅国への追放と改められた。姉の法均尼は還俗させられ、備後国へ追放された。
この追放に際して、清麻呂は姓を「別部(わけべ)」、名は「穢麻呂(きたなまろ)」、法均尼は名を「広虫売(ひろむしめ)」と改めさせられた。延暦十六年(797)成立の正史『続日本紀』はそう伝えている。法均尼は還俗させられたのである。「きたなまろ」への改名に至っては、いじめ以外の何ものでもない。
ところが、承和七年(840)完成の『日本後紀』になると、清麻呂は「別部穢麻呂」だが、法均尼の姓名は「別部狭虫(わけべのさむし)」となっている。おそらく清麻呂の「清い」→「穢い」に対応して、広虫も「広い」→「狭い」としたのだろう。
物語としては『日本後紀』のほうが面白いが、実際には「狭虫」ではなく、「法均」という法名を奪い、俗名である「広虫」に戻したのだろう。「売」は当時の女性名にはよくありがちな漢字である。
広虫は神護景雲三年(769)に備後のこの地に流されたものの、翌年の称徳天皇の崩御を機に赦免され都に召還される。道鏡も道鏡だが、称徳天皇にも原因がある。皇位の私物化によって国家に大きな混乱をもたらした。目立たない石碑だが、史上稀有な王朝交替未遂事件を伝える貴重な史跡である。
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