無賃乗車という犯罪を「薩摩守」と言ったそうだ。どう言い換えようがダメなものはやっぱりダメなのだが、実は『平家物語』に登場する人物ゆかりの風流な言葉なのである。どのようないわれがあるのだろうか。
明石市大蔵天神町のJR神戸線の下に「両馬川(りょうまがわ)旧跡」がある。
石碑の側面には「以両馬川橋材建之」と刻まれ、川に架けられていた橋の石材を碑に加工したことが分かる。この石碑が語り伝えようとしているのは源平合戦。両馬川は『平家物語』の舞台であった。明石市教育委員会の説明板を読んでみよう。
平忠度が岡部六弥太に追いつかれ、二人の馬が川をはさんで戦ったので「両馬川」という名前がついたと伝えられている。
平忠度(たいらのただのり)は清盛の弟で、和歌をよくしたことでも知られている。一ノ谷の戦いで戦死したが、その最期は名場面として知られている。『平家物語』巻第九「忠度最期」を少々長くなるが読んでみよう。
薩摩守忠度は、一谷の西手の大将軍にて坐(おはし)けるが、紺地の錦の直垂に、黒糸威(おどし)の鎧着て、黒き馬の太う逞(たくまし)きに、沃懸地(いかけぢ)の鞍置て乗り給へり。其勢百騎ばかりが中に打囲(うちかこま)れて、いと噪(さわ)がず引(ひか)へ引へ落給ふを、猪俣党(いのまたとう)に岡部六弥太忠純(たゞすみ)、大将軍と目を懸け、鞭鐙(むちあぶみ)を合せて追付(おッつき)奉り、「抑(そもそも)如何(いか)なる人でましまし候ぞ、名乗らせ給へ。」と申ければ、「是は御方(みかた)ぞ。」とてふり仰(あふ)ぎ給へる内甲(うちかぶと)より見入たれば、銕黒(かねぐろ)なり。「あはれ御方には銕(かね)附(つけ)たる人はない者を、平家の君達(きんだち)でおはするにこそ。」と思ひ、押竝(おしならべ)てむずと組む。是を見て百騎ばかりある兵(つはもの)共、国々の假(かり)武者なれば一騎も落合はず、我先にとぞ落ゆきける。薩摩守「悪(にッく)い奴かな。御方ぞと云はゞ云はせよかし。」とて熊野生立(おひたち)大力(だいぢから)の疾態(はやわざ)にておはしければ、やがて刀を抜き六弥太を馬の上で二刀(ふたかたな)、おちつく処(ところ)で一刀、三刀迄(まで)ぞ突かれける。二刀は鎧の上なれば、透(とほ)らず。一刀は、内甲へ突入(つきいれ)られたれども、薄手(うすで)なれば死なざりけるを、捕(とッ)て押(おさ)へ頸(くび)を掻(かゝ)んとし給ふ処(ところ)を、六弥太が童(わらは)、後馳(おくればせ)に馳(はせ)来て、討刀(うちがたな)を抜き、薩摩守のかひなをひぢの本(もと)よりふと切り落す。今は角(かう)とや思はれけん、「暫(しばし)退(の)け、十念唱(となへ)ん。」とて、六弥太を爴(つかう)で、弓長(ゆんだけ)ばかり投徐(なげのけ)らる。其後(そののち)西に向ひ高声(かうしょう)に十念唱へて、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨。」と宣(のたま)ひも果(はて)ねば、六弥太後(うしろ)より寄(よッ)て、薩摩守の頸を討(うつ)。好(よ)い大将討(うッ)たりと思ひけれども、名をば誰(たれ)とも知らざりけるに、箙(えびら)に結び附られたる文を解(とい)て見れば、「旅宿花(りょしゅくのはな)」といふ題にて一首の歌をぞ読まれける。
ゆきくれて木(こ)の下陰(したかげ)を宿とせば、花やこよひの主(あるじ)ならまし。忠度
と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知(しり)てけれ。
平忠度は一ノ谷の西の守将で、美しい衣と鎧を身にまとい、たくましい馬に蒔絵の鞍を置いて乗っていた。百騎ほどの護衛に囲まれ落ち着き払って退いていくのを、武蔵七党の猪俣党に属する岡部忠澄が見つけ、平家の大将だろうと思い、馬をはせて追いついた。
「貴殿はどなたでいらっしゃいますか。お名乗りください。」
「私は味方だ。」
そう答える武者の兜のうちを見れば、お歯黒であった。
「おっと、源氏方にはお歯黒をつけている者はいない。ということは平家の公達だな。」
岡部は忠度に馬を並べてむんずと組み合った。これを見た忠度の家来たちは、各地からの寄せ集めだったので、助勢する者は一騎もなく、我さきにと落ちのびていった。
忠度は岡部をつかむと
「腹立つ奴だ。味方と言ったのだから、言わせておけばよいだろうが。」
と言い、熊野育ちの強力で武芸の達人でもあったので、刀を抜いて馬上で二回、落馬して一回、計三回、岡部を斬りつけた。二回は鎧の上からなので身を斬ることができず、一回は顔のあたりに突き入れたが、浅い傷にしかならなかった。このため忠度は岡部を押さえ込んで首を取ろうとしたが、そこへ岡部の従者が駆け付け、抜いた刀で忠度の右腕を切り落としてしまった。
忠度はもはやこれまでと思い、
「しばらく向こうへ行ってろ。念仏を唱えさせてくれ。」
と、岡部をつかんで弓の長さほど投げ飛ばした。そして、西に向かって声高に念仏を十遍唱え、
「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨(阿弥陀さまはすべての者をお救いになる)。」
と言ったが死なないので、岡部は後ろから近寄って忠度の首を取った。
高名な武将を討ち取ったと思ったが、名前が分からない。そこで、矢具に結び付けられた文を解いてみると、「旅宿花」という題で歌が一首詠まれていた。
旅の途中、日が暮れたので木の下で野宿することとした。今夜は桜が主人となってもてなしてくれるのか。忠度
こう書いてあったので、薩摩守忠度だと分かったのである。
明石市天文町二丁目に「忠度塚」がある。
ここには忠度の亡骸が埋められているという。
明石市天文町一丁目に「腕塚神社」が鎮座している。もとは塚だったが鉄道敷設の際に取り壊され、神社として祀った。
ここには忠度の右腕が祀られ、腕や腰の痛み解消にご利益があるそうだ。右腕さえ切られることがなければ、目にもの見せてくれてやったのに。この忠度の悔しさが、この神社のパワーの源泉である。同様な例は各地にあって、このブログでも「足の神様となった戦国武将(八浜合戦・下)」で紹介したことがある。
ところで、冒頭の「無賃乗車=薩摩守」説だが、お分かりいただけただろうか。無賃乗車はただ乗りだから、忠度、つまり薩摩守というわけだ。『平家物語』の名場面とは何の関係もなく、忠度本人にはたいへん失礼だが、「薩摩守忠度」の名を知らなければ通じない、少し教養ある駄洒落であった。
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