江戸時代には牢屋が火事になった際に「切り放し」という措置が取られた。囚人たちに対し、解放する代わりに必ず戻ってくるよう指示し、約束を守った者は減刑、逃亡した者は死刑にしたという。災害時は避難第一で命を守ることが最優先される。それは江戸時代でも現代でも変わらない。「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」には、次のように規定されている。
第八十三条 刑事施設の長は、地震、火災その他の災害に際し、刑事施設内において避難の方法がないときは、被収容者を適当な場所に護送しなければならない。
2 前項の場合において、被収容者を護送することができないときは、刑事施設の長は、その者を刑事施設から解放することができる。地震、火災その他の災害に際し、刑事施設の外にある被収容者を避難させるため適当な場所に護送することができない場合も、同様とする。
3 前項の規定により解放された者は、避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、刑事施設又は刑事施設の長が指定した場所に出頭しなければならない。
太平洋戦争の空襲においても、佐世保刑務支所、呉刑務支所、鷹見町刑務支所(岐阜)、熊谷刑務支所で解放が行われたことが、『戦時行刑実録』という資料に記録されているらしい。しかし、原子爆弾の投下においては避難する余裕はあろうはずがなかった。
長崎市松山町の平和公園は「長崎刑務所浦上刑務支所跡」である。
写真は扇形に配置されていた建物の基礎部分である。この位置から平和祈念像の位置まで刑務所の建物があった。説明板を読んでみよう。
長崎刑務所浦上刑務支所は、爆心地より北へ最短約100m、最長約350mの地点(岡町)にあり、爆心地にもっとも近い公共の建物であった。1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾のさく裂によって刑務所内にいた職員18名、官舎住居者35名、受刑者及び刑事被告人81名(うち中国人32名、朝鮮人13名)計134名全員が即死した。刑務所の木造庁舎は炊事場の煙突一本を残し倒壊全焼し、また周囲をめぐらした高さ4m、厚さ0.25mの鉄筋コンクリート塀も基礎部分を残して倒壊した。その後、1949年(昭和24年)、特別法としての長崎国際文化都市建設法が制定されるに及び、この地は平和公園として整備され、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う人々の聖地としてよみがえった。長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。
1989年(平成元年)8月 長崎市(原爆資料館)
高さ4mあった塀の基礎部分も保存されている。
今は明るく静かな祈りの場が、かつては高い塀に囲まれた矯正の場であったとは。原子爆弾は罪のない多くの人々にむごたらしい死をもたらした、などとよく表現されるが、塀の中にいた人々には罪があった。どれほどの刑に服していたのかは知らないが、原爆で命を奪われるというのは、あまりにも理不尽だろう。一般社会から隔絶する高い塀も罪の有無も、原爆の下では何の関係もなかった。これが無差別大量虐殺でなくて何なのか。
ノーベル平和賞を受賞したオバマ米国大統領は、有名なプラハ演説(2009年)で次のように述べた。
核保有国として、核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として、合衆国には行動する道義的責任がある。我々は単独ではこの取り組みを成し遂げられないが、それを主導し、開始することはできる。
「十年ひと昔」というが、まったくそのとおりだ。あの頃は、何か新しいことが始まる、と希望を抱くことができた。今の米国や我が国の政治姿勢に、核兵器廃絶に向けた決意は微塵も感じられない。核戦争のもとでは、私たちが解放され、どこかに逃げることなどできない。逃げることができても、元の場所には戻れないだろう。火事をなくすことは難しいが、核をなくすのは指導者の決断次第である。