グラバーを「死の商人」と呼ぶのは言い過ぎだろう。薩長のみならず幕府にも武器を売ったのは確かだが、八女茶を輸出したりキリンビールを設立したりと、私たちの暮らしの向上にも貢献している。しかし、彼の遺産のうち最も社会に貢献しているのは、この建物だ。
長崎市南山手に「旧グラバー住宅」がある。国指定重要文化財である。
長崎を訪れた観光客や修学旅行生が必ずと言ってよいほど立ち寄るスポットだ。瀟洒な建物を楽しむもよし、高台から長崎港を眺めるもよし。私たちの奥底にある異国趣味をくすぐってくれる。長崎市が設置した説明板を読んでみよう。
旧グラバー住宅は、安政6(1859)年に来日したスコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーの邸宅である。文久3(1863)年に対岸の長崎製鉄所を見下ろす外国人居留地に建設された。大浦天主堂等の建築を請け負った棟梁小山秀之進による日本の伝統的な建築技術とイギリス風のコロニアル様式との融合を示す、現存する我が国最古の木造洋風建築である。日本瓦や土壁(漆喰)を用い、半円形を描く寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱があり、柱間には吊束を持つアーチ型欄間、木造菱格子の天井を持つ広いベランダが特徴である。
グラバーは、開国後間もない日本において、武器や船舶などの輸入や茶などの輸出など貿易商として活躍しただけでなく、現存する我が国最古の蒸気機関を動力としたスリップドックである小菅修船場を薩摩藩と共同で築造するとともに、我が国で初めて石炭の採掘に蒸気機関を導入した高島炭坑を佐賀藩と共同で開発するなど、西南雄藩と協力して西洋技術を導入し、日本の造船や石炭産業の近代化に大きく貢献した人物である。明治政府はグラバーの功績を称えて、明治41(1908)年、勲二等旭日重光章という栄誉ある勲章を与えている。
ベランダ・コロニアル様式という建築様式が、グラバー邸の印象の決め手となる。我が国は植民地(colony)にはならなかったが、コロニアル建築を瞬く間に取り入れた。グラバー邸が完成した文久三年は、長州藩が下関で外国船を砲撃し、イギリス艦が鹿児島を砲撃した年でもある。西洋に対する受容と排斥の動きが交錯する激動の幕末であった。
グラバーは我が国の混乱状況に商機を見出し、薩長はグラバーを利用して幕府に対抗するだけの実力を備えた。武器の斡旋にとどまらず、貿易、造船、石炭、ビールの分野でも日本の近代化に寄与し、今も観光業でたいへんお世話になっている。確かにこの貢献度は勲章ものであろう。
住宅のすぐ近くに「トーマス・ブレーク・グラバー之像」がある。銘板を読んでみよう。
英国人トーマス・ブレーク・グラバーは安政6年(1859)長崎に来て貿易業を営むかたわら近代的な造船・掘炭・製茶などの事業をおこしわが国産業の発展に貢献した。その間特に薩長土肥の諸藩に協力して明治維新の大業に寄与した。その偉功により勲二等旭日章を授けられ明治44年(1911)73歳で永眠した。
ここに胸像を建てその功績を長く顕彰する。
昭和36年10月 長崎市長 田川 務
昭和36年には、昭和天皇夫妻がご来崎になり、旧グラバー住宅が国の重要文化財に指定された。胸像は戦災から復興し発展を遂げる長崎港を見つめ、今も世界に開かれた都市長崎のシンボルである。
グラバーが受賞した勲二等旭日重光章は、現在も「旭日重光章」として国家に貢献した人々に授けられている。平成三十年春の外国人叙勲では、イギリスのノーベル賞作家カズオ・イシグロが「旭日重光章」を受賞した。そういえば、イシグロさんは長崎生まれだ。長崎と英国の関係の深さに、ただ感嘆するばかりである。
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