「二重橋」とは、よくテレビで見る皇居前の石橋のことかと思ったら、違っていた。正しくは、石橋の奥にある鉄橋を指すそうだ。では、あの二連アーチの石橋は何と呼ぶのか。正式には「正門石橋」で俗称は「眼鏡橋」である。なんだ、そうだったのか。眼鏡橋ならよく知っている。さっそく本場の眼鏡橋を訪ねてみよう。
長崎市魚の町、栄町、諏訪町、古川町の境に「眼鏡橋」がある。確かにメガネに見える。国指定重要文化財である。
日本橋、錦帯橋と並んで日本三名橋の一つとされる。日本橋は7つの国道の始点となる重要な役割を担う石橋、錦帯橋は類まれな技巧で見る者を魅了する木橋である。眼鏡橋にはどのような意義があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
中島川の第10橋。わが国最古の石造アーチ橋で、寛永11年(1634)興福寺唐僧黙子(もくす)禅師によって架設された。
黙子禅師は中国江西省建昌府建昌県の人で、寛永9年(1632)に日本に渡来したが、石橋を架ける技術指導者でもあったようである。しかし、この眼鏡橋は、正保4年(1647)6月の洪水で損害を受け、慶安元年(1648)平戸好夢(こうむ)によって修復がなされた。
川面に映るその姿から、古来より“めがね橋”の名で長崎の人たちに親しまれていたが、明治15年(1882)に正式に眼鏡橋と命名された。
日本最古の石造アーチ橋だというが、正確には沖縄県の「天女橋」が現存最古で、1502年の建造、日本では文亀二年、明の元号を使用していた琉球では弘治十五年である。これに対して眼鏡橋は寛永十一年(1632)の架橋で、架けたのは中国から来た僧侶だ。異国情緒を感じる景観の原点は、まさにここにあるではないか。さすがは長崎。国際文化都市として四百年もの歴史を誇っている。
長崎市諏訪町に「黙子如定(もくすにょじょう)像」がある。ライオンズクラブ国際協会長崎中央クラブが設置した。寛永九年(1632)に渡来した黄檗宗の僧侶である。
像が写実的なのは、黄檗僧の頂相に倣ったものだろう。台座側面の銘板には、次のように記されている。
黙子如定(1597~1657)は、中国江西省の人で、寛永11年(1634)にわが国最初のアーチ型石橋眼鏡橋を完成させ、翌年からは興福寺の二代住職を勤めた。
長崎の興福寺は我が国最古の黄檗宗寺院。黙子如定の弟子で第三代住職の逸然性融が招聘に尽力したのが、有名な隠元隆琦(いんげんりゅうき)、日本黄檗宗の祖とされる高僧である。隠元さんは承応三年(1654)に来日し、インゲン豆の名称の由来となっていることで知られている。他にも明朝体、原稿用紙、木魚、煎茶、普茶料理を伝えたとされ、我が国の文化の源流の一つを成している。
黙子如定は長崎の景観形成に大きな足跡を残し、隠元さんは日々の文書作成でたいへんお世話になっているフォントを伝えてくれた。遠い存在だった黄檗宗に少し親しみを感じるようになった。
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