子どものころ、「軍艦じゃんけん」をやっていた。グーは「軍艦」、チョキは「沈没」、パーは「破裂」と呼んだ。最初は親決めで「戦争(せーんーそ!)」と言ってじゃんけんし、勝って親になると「軍艦、軍艦、(任意)」と言って、掛け声に合わせた手を出す。勝った方は親として次の掛け声を言う。例えば、チョキで勝ったら「沈没、沈没、(任意)」と言い、同様に続けていく。勝ち点1で3点先取で勝利だった。左手をつなぎ、連続して勝った場合には掛け声が「一本とって(任意)」となり、相手の手の甲を叩く権利が与えられるというやり方もあった。この場合、「三本とって勝利」まで続いた。
本日は世界遺産の軍艦島に上陸したのでレポートする。
長崎市高島町端島は「軍艦島」と呼ばれ、平成27年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の「端島炭鉱」として世界文化遺産に登録された。また「高島炭鉱跡(端島炭鉱跡)」として国の史跡にも指定されている。
軍艦島は荒天のほか台風による被害でたびたび上陸できなくなる。先日はアスベスト検出の疑いがあるということで、7月31日から8月9日まで上陸禁止となった。私が訪れた時はあいにくの雨天だったが、傘をさすことは禁止(カッパ着用)されている。
過酷な環境の中で、かつての鉄筋コンクリート都市は風化が進んでいる。崩壊した都市の姿はアニメの中でしか見たことがなく、どこまでが現実なのか分からなくなる。おそらくは我が国の経済発展を支えた石炭産業の盛衰を学ぶ場なのだろうが、その風景は都市の未来を暗示するようでもあり、思考が停止し言葉を失う。
鉱員住宅の「30号棟」が正面に見える。日本最初の鉄筋コンクリート造の高層アパートで、大正5年の建築である。7階建で140戸入居できた。鉱員向けなので部屋は広くなかったようだ。
丘の上に職員住宅の「3号棟」が見える。こちらは幹部職員用なので、風呂付の広い区画だったらしい。昭和34年の建築で、鉄筋コンクリート造4階建、20戸が入居できた。
丘の下に並ぶ列柱は「貯炭ベルトコンベア」である。採掘された石炭のうち質の良いものは精炭と呼ばれ、このベルトコンベアで貯炭場へ運ばれた。
正面に「高島町立端島小学校・中学校」が見える。昭和33年建築の鉄筋コンクリート造7階建であった。まるで都心の学校のようだが、児童生徒用のエレベーターはなかった。校歌の1番を紹介しよう。
高島の沖 巍峨として
動かぬ船の名をえたる
奇しき端島の島の上に
我が学び舎はそそり立つ
巍峨(ぎが)は、建物が高くそびえ立つさまをいう。校歌には周辺の風景が歌われることが多いが、校舎そのものを歌うのは珍しい。確かに、歌う価値のある校舎であった。最盛期の昭和40年代前半には800人を超える子どもたちが学んでいたようだが、炭鉱閉山に伴い昭和48年度を最後に閉校となった。
軍艦島の子どもたちが、軍監じゃんけんをしていたかどうかは定かでない。ゲーム機などなくても、いろんな手遊びで子どもたちは楽しんでいる。「CCレモン」という手遊びを、うちの子は「たんたんめん」と呼んでいた。
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