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今は静かな中国山地が我が国の製鉄業の中心地だったことは、あまり知られていない。平成20年(2008)に「近代製鉄発祥150周年記念」という切手が発行された。鉄鉱石を原料として高炉と呼ばれる反応炉で鉄を作る近代製鉄は、安政四年12月1日(1858年1月15日)に南部藩士の大島高任が釜石において始めたという。
さすがは新日鉄釜石だが、近世以前はもっぱら中国地方で製鉄が行われていた。原料の砂鉄や燃料の木炭の入手が容易だからだ。今年の夏に島根県立古代出雲歴史博物館で「たたら -鉄の国 出雲の実像-」という秀逸な展覧会があった。それによると中国地方の中でも、11世紀までは吉備が、それ以降は出雲が主産地となったという。今日は吉備の古い製鉄遺跡を訪ねることとしよう。
津山市神代に「大蔵池南(おおぞういけみなみ)製鉄遺跡」がある。道路脇だが、ふだん人が立ち入る場所ではないので、夏草が伸び放題だ。
製鉄所というとコンビナートのような大規模な工場群を思い出すが、ここにあった製鉄所はずいぶん小さいようだ。草をかき分けて説明板を読みに行こう。
大蔵池南製鉄遺跡は道路建設に伴う発掘調査により発見されました。調査の結果、7層の作業面とその作業面に伴う製鉄炉跡を6基検出しました。この製鉄遺跡の時期は、一緒に出土した遺物により古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)と推定されます。
製鉄遺跡は尾根の南斜面を削り取って、巾約5m長さ約7~8mの平坦面を造っています。この平坦面は作業面で、製鉄炉を築造し、燃料置場、原料置場、さらに鉄滓を廃棄する場所等がありました。製鉄炉はスサ入粘土で巾50~60cm、長さ100~120cm、四方の箱型に造られており、炉の長辺の両側にはテラス状の作業台が付いています。
炉壁には直径3cmの通風孔が穿たれており、製鉄作業の燃料には木炭、原料には砂鉄を用いて、人工的に送風しながら製鉄を行っていたと考えられます。
検出した1・4・5・6・7の炉跡と、その下層の遺構は遺跡の重要性を考慮して埋土により保存されています。
この遺跡の所在する糘山(すくもやま)地区には鉄滓を副葬した古墳や鉄穴流し遺構(砂鉄採取の跡)があり、古代から鉄と深く結びついた地域であることがわかります。
久米開発文化財調査委員会
ずいぶん古い製鉄所のようだ。製鉄炉、燃料置場、原料置場、廃棄物置場と分けられ、小さいながらもやはりコンビナートのように作業効率を考えた配置がなされていたのだろう。近くには鉄穴流しの遺構があるというから、砂鉄を原料とする近代以前の製鉄はずいぶん長い歴史があることがわかる。スサ入粘土とは藁や草を混ぜた粘土のことで、今も壁土にはよく見られる。
この遺跡はゴルフ場に通じる道路建設に伴い、昭和55年に発掘調査が実施されて発見された。同年12月20日の現地説明会においては、次のような報告があったという。『久米町史』より
「製鉄の原料は砂鉄と推定され、木炭を燃料として製鉄していたと考えられる。炉はスサの入った粘土で築かれており、送風装置は人工送風がおこなわれていた。此の調査中に発見された他の遺物から見て此の遺跡の最終は六世紀末乃至七世紀初の頃で、発見されていてその時期の明確なものゝ中では日本最古の製鉄炉跡と考えられる。」
なんと日本最古という、超重要な遺跡のようだ。しかも、製鉄の歴史が古墳時代にまでさかのぼることを確認した画期的な発見だった。ところが研究の進んだ現在では、最古の製鉄遺跡は6世紀中頃の千引カナクロ谷遺跡(総社市)だとされている。こちらの原料は砂鉄ではなく鉄鉱石である。冒頭の展覧会でも展示されていた。朝鮮半島の製鉄が鉄鉱石だったから、渡来人が技術を伝えたのかもしれない。
とすれば、砂鉄による製鉄はどのように始まったのだろうか。もしかすると糘山地区の人々が考え出したのかもしれない。いや、もっと古い製鉄遺跡が発見されるかもしれない。草木の緑で自然に還りそうな大蔵南池遺跡だが、我が国の製鉄の起源を考えるうえで、今も貴重な遺跡であることに変わりない。
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