かつて歴史と文学は一体であった。『古事記』だってそうだ。何らかの史実があったのだろうが、語られるうちにフィクションで装飾され、物語性が増している。そしてフィクションでありながら、人間性の本質を描き出し、文学性を高めている。だから1300年の時を経ても私たちの心を動かすという、稀有な歴史書なのである。
アニメの聖地巡礼のように、『古事記』にも聖地巡礼があったようだ。物語の舞台の探訪である。本日は、黒媛伝説の一つの舞台を取材したので紹介する。
津山市新野山形に「水原古墳」がある。天井石のない横穴式石室で、向こうに見える二つの石は歌碑である。
緑におおわれて、道路脇の歌碑がなければ見過ごしてしまいそうだ。どのような古墳なのか、説明板を読んでみよう。
水原古墳(伝黒媛(くろひめ)塚)
昭和十二年(一九三七)に発掘した横穴式石室の古墳、陶棺(長さ二二二センチメートル高さ八四センチメートル)勾玉、管玉、ガラス玉、銀環銅環、刀子などの出土品は東京国立博物館に保管。
古事記下巻にある吉備の山県(やまがた)における仁徳天皇と黒媛の美しいロマンは、山形の地名が遺るこの地の物語と古くから語り伝えられており、この古墳を黒媛塚という。
勝北町教育委員会
陶棺はこの地方に特徴的な棺で、石棺の重厚さに対して、暖色系の土師質でなめらかなフォルムが魅力的な亀甲系だ。見ていると寝てみたくなる。
さらにこの古墳を特色づけているのは、黒媛伝説だ。『古事記』仁徳記には、かまどの煙が立たないのを見て税を免じたという、有名な国見の逸話に続いて、次のような恋物語、いや浮気話が記されている。
爾(ここ)に天皇、吉備の海部直(あまのあたへ)が女、名は黒日売(くろひめ)それ容姿端正(かほよし)と聞し看(め)して、喚上(めさ)げて使ひたまひき。然れどもその大后の嫉(ねた)ますを畏みて、本国(もとつくに)に逃げ下りにき。天皇、高台(たかどの)に坐(ま)して、其の黒日売の船出浮海(ふなでする)を望瞻(みさ)けまして、歌曰(うた)ひたまはく、
沖方(おきへ)には 小舟つららく くろざきの まさづこわぎも くにへくだらす
故(かれ)大后、是の御歌を聞かして、大(いた)く忿(いか)りまして、大浦に人を遣(つかは)して、追ひ下(おろ)して、歩(かち)より追去(やら)ひたまひき。
是(ここ)に天皇、其の黒日売に恋ひたまひて、大后を欺(あざむ)かして、淡道島(あはぢしま)見たまはむとすと曰(の)りたまひて、幸行(いでま)せる時に、淡道島に坐(ま)して、遥(はるばる)に望(みさ)けまして歌曰(うた)ひたまはく、
おしてるや 難波の崎よ いでたちて わがくにみれば 淡島(あはしま) 淤能碁呂島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島もみゆ 佐気都島(さけつしま)みゆ
乃(すなは)ち其の島より伝ひて、吉備の国に幸行(いでま)しき。爾(かれ)黒日売、其の国の山方(やまがた)の地(ところ)に大坐(おほま)しまさしめて、大御飯(おほみけ)献(たてまつ)りき。是(ここ)に大御羮(おほみあつもの)を煮むとして、其地(そこ)の菘菜(あをな)を採める時に、天皇其の嬢子(をとめ)の菘(な)採(つ)む処に到り坐(ま)して、歌曰(うた)ひたまはく、
やまがたに 蒔(ま)ける菘菜(あをな)も 吉備ひとと ともにしつめば たぬしくもあるか
天皇上り幸(いでま)す時に、黒日売の献(たてま)れる御歌曰(うた)、
倭方(やまとへ)に 西風(にし)ふきあげて くもばなれ 離(そ)きをりとも われわすれめや
又歌曰(また)、
倭方(やまとへ)に ゆくはたがつま 隠水(こもりづ)の 下よ延(は)へつつ ゆくはたがつま
仁徳天皇は、吉備海部直の娘、黒媛がカワイイと聞いて宮中へ呼んだ。しかし黒媛は、お后のねたみが怖くなって吉備に逃げ帰った。天皇は、高台から黒媛が船出するのを見て、こう歌った。
「小舟が連なって沖へ沖へと進んでいく。私のかわいい黒媛ちゃんが帰ってしまう。」
お后はこの歌を聞いて激怒し、家来に命じて黒媛を船から下ろし、歩いて帰らせた。
天皇は黒媛が恋しくて、お后をだまして「淡路島を見てくる」と言って出掛け、島に渡って遥か西を望んで、こう歌った。
「難波の崎から船出して我が国を見れば、淡島、おのごろ島、あじまさの島が見える。離れ島もだ。(この島々の向こうに黒媛ちゃんのいる吉備があるんだ。)」
とうとう天皇は淡路島から吉備に行ってしまった。黒媛は天皇を吉備の山方にお迎えし、食事を差し上げた。黒媛がお吸い物に入れる青菜を摘んでいると、天皇がやってきて、こう歌った。
「吉備の山方で黒媛ちゃんといっしょに青菜を摘むと、なんだか夫婦みたいで楽しいね。」
やがて時は過ぎ、天皇は帰らねばならなくなった。このとき黒媛は、こう歌った。
「大和のほうに西風が吹いて、雲が離ればなれになってるけど、私は遠くにいても仁徳くんを忘れないよ。」
さらに、こう歌った。
「大和に帰っていくのは誰の恋人?草むらに隠れて流れる水のようにやってきたのは、誰に逢うためだったの?」
この逸話に登場する「吉備の山方」が、津山市新野山形だというのである。だから水原古墳を「黒媛塚」という。そうかもしれないが、吉備路のこうもり塚古墳も「黒媛塚」と呼ばれていた。黒媛の聖地はいくつもあるようだ。
写真に見える歌碑には、吉備を代表する書家、高木聖鶴の書で、「山縣に…」と「倭方に…」の歌が刻まれている。古代史屈指の相聞歌である。この歌によってずいぶんと、文学性が高まっている。
寝心地のいいベッドである陶棺に横たわっていた古墳の主は、いつの間にかベッドが東京に移送されていたことにビックリしているだろう。そして自分の墓が仁徳天皇と吉備の美女の恋物語の舞台となっていることに、もう一度驚愕したに違いない。
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