前方後円墳なら中学生でも知っている。特徴ある形をしているので描くこともできるだろう。一般に「鍵穴」と言われるあの形だが、今時そんな鍵穴は見たことがない。うちの鍵穴はタツノオトシゴのような形をしており、特に印象に残るようなものではない。
古墳の形にはいろいろあるが、全古墳の大部分は円墳であり、前方後円墳は実は少ない。さらに珍しい形の古墳もあるという。さっそく行ってみよう。
津山市中北下字三成(さんなり)に「三成古墳(三成4号墳)」がある。国指定史跡である。
あの仁徳天皇陵が前方後円の形をしているとは地上から分からないだろう。周囲を散策した私には小さな山にしか見えなかった。いっぽう三成古墳は墳形を眼下に収めることができる。古墳を鑑賞するにはちょうど好い大きさである。墳丘に上らせていただこう。そこで見たものは…。
石の棺桶が埋められていた。中は草が生えているほか何もない。墳形は二つの形が組み合わさっているようだが、円形と方形ではなく、方形と方形だ。ということは…。説明板を読んでみよう。
三成古墳は、前方後方墳という墳形に分類される古墳です。前方後方墳は、後方部と呼ばれる方形の主丘に、前方部と呼ばれる方形の突出部がついた形式をいい、岡山県内では約30基が確認されています。また、県北部においては、最大規模の古墳が前方後円墳ではなく、墳長91.5mの前方後方墳である植月寺山古墳(勝央町)であるという特色があります。
この三成古墳は、昭和52(1977)年に発見され、岡山県教育委員会による発掘調査の結果、墳長35mを測る比較的小型の前方後方墳であることが明らかになりました。
墳丘は尾根を利用して築造され、後方部にのみ葺石があります。山側に向く北面では旧地形にわずかな加工を加えた程度であるのに対し、平野に面した古墳の南から西にかけての面ではより丁寧に前方後方形を意識して墳丘がつくられていたことがわかりました。
埋葬施設は、前方部及び後方部の頂部にそれぞれ1基(第2、第1主体)、後方部墳丘斜面に1基(第4主体)、後方部墳丘裾に2基(第3、第5主体)、計5基の箱式石棺で、第3~第5主体の3基については、規模などからいずれも小児あるいは幼児用と考えられています。
第1主体からは仿製(日本製)の変形四獣鏡・鉄剣・鉄斧・勾玉が各1点出土し、ほかに前方部と後方部が接する部分であるくびれ部から手鎌1点と、底部に孔があけられた壷形土器が出土しました。これらの副葬品の特徴と墳形、立地等からこの古墳は概ね5世紀初めごろの築造とみられ、この地域の首長およびその一族の墓と推定されています。
本墳は、昭和54(1979)年10月に国の史跡指定を受けたのち墳丘の整備を行い、築造時の姿を取り戻しました。
平成29年3月 津山市教育委員会
前方後方墳であった。美作地域最大の古墳がこの墳形だから、何らかのつながりがあるに違いない。興味深いのは「映え」を意識して古墳を造っている点である。見えにくい部分には手を入れず省力化を図っている。昨今、流行りの「働き方改革」である。
第1主体からの出土品には、径12cmの仿製変形四獣鏡のほか鉄製品がある。植月寺山古墳の主から下賜されたのだろうか。ここには記されていないが、石棺の内側には朱が塗られており、中からは男女の人骨が一躰ずつ見つかっているそうだ。人骨の出土は第2主体も同様で、やはり男女一躰ずつである。周囲には子ども用らしき石棺もある。二世代にわたる家族墓だろうか。
うすうす、こんな疑問を抱かれている方もおられるのではないか。前方後円墳は前が方形で後ろが円形だと分かるが、前方後方墳はどちらも方形で区別できるのか。できる。前方後円墳も前方後方墳も、前方部は台形をしている。そのように見ると、上の写真では手前が前方部、奥が後方部となる。
三成古墳は「映え」を意識していると述べた。このあたりは映えスポットが多く、五重塔のある久米廃寺、久米郡の中心となる久米郡衙があった。権力は理屈のみならず見た目も重要なのである。
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