北条早雲を主人公とする漫画、ゆうきまさみ「新九郎、奔(はし)る!」が「月刊!スピリッツ』(小学館)に連載中だ。正義感が強く行動力のある新九郎が、理不尽なことの多い乱世に立ち向かっている。史実を丁寧に描きながら現代的なギャグもちりばめ、けっこう玄人ウケしているらしい。
早雲こと伊勢新九郎盛時の出自については、近年の流れに沿って備中伊勢氏説を採用している。その新九郎がふるさとに贈り物をしているというので、さっそく訪ねてみた。
井原市神代町に「新九郎薬師」がある。車道から少し離れているが、北条氏の家紋「三つ鱗」が染め抜かれたのぼりが目印となっているので、すぐに分かる。
このお堂の中に薬師如来像が安置され、そのお姿は写真で拝観することができる。どのようないわれがあるのだろうか。昭和52年発行の井原市教育委員会『少年少女のための井原市史』には、次のように記されている。
東江原町には、昔から早雲が寄進した仏像があるという言い伝えがあったので、最近、郷土史家や地区の人たちが調査したところ、神代町西側地区にある大師堂から、早雲寄進と思われる薬師如来像が発見された。この像は、左手に薬つぼをもった伏し目の立像で、高さは九六センチ、台座を含めると一三二センチもあり、全体がうるしと金ぱくでおおわれている。そして、像の背部に「祈願主、新九郎」という字形と、独特の花押(自分でかいたはん)が、はっきりうかんでいるという。像は、虫くいなどによるいたみもはげしく、定かではないが、鑑定では戦国時代のものといわれ、早雲の時代とうまくあっている。
これは大発見だ。早雲が備中出身であることを示す動かぬ証拠と言えるだろう。さらに詳しく調べようと平成24年に調査が行われ、その結果を踏まえた説明板が設置されている。読んでみよう。
新九郎薬師(井原市神代町西側)
像高95.3cm。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が、故郷へ一時戻った際に祀ったという伝承が残る木造薬師如来立像。
頭部は螺髪にして、肉髻を表す。面相部は彫眼として、半眼慈悲相に作る。左手首を前方に曲げて薬壷を乗せる。下半身は両足をそろえて蓮台上に立つ。
構造は、両耳中央を取る線で幹部材を割り放ち、内刳りを施した後、矧ぎ付ける一木割矧ぎ造りと思われる。体側材を左右に寄せて成形する。袖口から別材の手首先を差し込む。
後世の修理の際に裾部が切り詰められるなどして、像容が変じているが、肉髻や裾の文様から平安時代後期の制作と考えられる。背面に「祈願主新九郎」と朱書きがあるが、江戸時代の修理後の表記と考えられる。修理された時代に、早雲が安置した立像という伝承が伝わっていたことがわかる。
なんと平安時代にさかのぼる仏像だという。価値が増したように思えるが、早雲と直接関係があるわけではなさそうだ。懐かしい故郷を訪れるのは、現代人なら思い立てばできるかもしれないが、早雲の時代には生死をかけた大旅行だったに違いない。備中を出立してから早雲は、おそらく戻っていないだろう。
郷土の偉人が懐かしい故郷に戻り、仏像を寄進してお世話になった人々の安寧な暮らしを祈願した。備中の人々は江戸時代を通じて、そのように早雲を語り継いできた。早雲の出自には諸説あったが、備中ほど地元で語られた場所は、他にないだろう。
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