イメージのあまりよろしくない小早川秀秋は、関ヶ原の戦功により備前岡山城主となるが、これは岡山の人々にとっては「400年ぶりにお帰りなさい!」という歓迎すべき出来事であった。というのも、小早川氏の先祖にあたる鎌倉御家人土肥実平(どいさねひら)が、一ノ谷後の元暦元年(1184)に頼朝から備前、備中、備後3か国の惣追捕使に任ぜられているからだ。
実平の子遠平(とおひら)も戦勝後、安芸国沼田荘の地頭に任じられた。その子孫は小早川氏を名乗り、この地方の豪族として栄えるのである。本日は、小早川氏ゆかりの美しい宝篋印塔をレポートする。
三原市大和町平坂に「棲真寺定ヶ原石塔(せいしんじじょうがはらせきとう)」がある。県指定史跡である。
棲真寺はここから離れた場所に今もある臨済宗のお寺で、土肥父子が建立したと伝えられる。では、この石塔は父子とどのような関係があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
源頼朝の重臣土肥実平は源平合戦の戦功により中国追捕使に任じられ、その子遠平は沼田の庄郡鶴城に據りて栄えた。頼朝はその子女を遠平夫人として降嫁させたところ、建保四年(一二一六)若くしてこの世を去り、実平遠平父子は夫人(法名天窓妙仏)の追善供養のため承久元年(一二一九)棲真寺を建立したと伝えられる。
妙仏の母寿庵尼は娘の早世をいたみ、落髪してこの寺に住い、安貞二年(一二二八)没した。定ヶ原の宝篋印塔は寿庵尼の墓と伝えられる。塔身は後補しているが鎌倉時代の様式をもった立派なつくりである。
三原市教育委員会
土肥実平は、壇ノ浦後の元暦二年に長門と周防の惣追捕使を追加され、山陽道の総責任者となった。このことを「中国追捕使」と呼んでいるのだろう。息子の遠平は名誉なことに、頼朝の娘を妻とすることができたが、妻は早世してしまう。妻の母親つまり頼朝夫人は、この地で娘の菩提を弔った。石塔は夫人の墓だという。
源頼朝には何人かの愛妾がいて、正室政子にバレないようにしていたというが、寿庵尼もその一人だったのだろう。おそらくは政子の怒りを恐れて、この地に逃げてきたのかもしれないし、怒りを買って追放されたのかもしれない。
頼朝に頼まれて愛妾亀前(かめのまえ)をかくまっていた伏見広綱は、政子の怒りによって屋敷をぶっ壊され、流罪にされてしまう。寿庵尼は安芸国沼田荘に来て正解だった。鎌倉に留まっていたらロクなことにはならなかっただろう。権力は遠きにありて思ふもの、近付くところにあるまじや。
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