ある調査によれば広島県民に一番人気がある武将は、毛利元就だそうだ。関ヶ原後の毛利氏は今の山口県に移り、替わって大名となるのは福島正則であり、幕末まで続いた浅野氏である。浅野氏の支配の長さに比べれば、元就の時代は短い。それでも元就の人気が高いのは地元出身であり、芸備統一、つまり広島県域の基礎を築いた武将だからだろう。
この調査(『信長の野望』サイト)によれば、広島県の第二位は小早川隆景だったそうだ。以前に地元三原にある銅像を紹介したことがある。隆景亡き後も三原城は存続するが、城主はほとんど知られていない。本日は、地元三原に眠る二人の城主を紹介することとしよう。
三原市本町三丁目の宗光寺の墓地に「福島正之(ふくしままさゆき)の墓」がある。
福島正則の評価については、本ブログ記事「拙者、不器用ですから」で考えたことがある。良くも悪くも有名な正則に比べて、本日紹介する正之はほとんど知られていない。どのような武将なのか、説明板を読んでみよう。
三原市史跡 福島正之の墓 一基
昭和三十六年四月二十八日指定
所在 三原市本町 宗光寺
室町時代後期の様式を完全に備えている貴重な石造宝篋印塔で、高さは一・七七mである。
正之(一五七九~一六○一)は、福島正則の養子で、刑部少輔ともいう。正則は、幼少の頃から秀吉に仕えて大名になった一人で、加藤清正とともに武将派の重鎮である。慶長五年(一六○○)関が原の戦後、功によって毛利氏のあとをうけて芸備四十九万八千二百石に封ぜられ広島へ入国した 。このとき、正之を三原城に置き備後支配の要とした。
宗光寺過去帳によると、慶長六年五月五日に没し、法号「宗光寺殿天英光公大居士」とある。
三原市教育委員会
大部分がお父さん正則の説明に充てられており、正之に関して分かるのは、正則の養子で三原城に置かれたことくらいだ。実父は別所重宗で妻は正則の姉でった。重宗の立ち位置は秀吉に近く、三木合戦には反対して参加しなかった。
正則は、嫡男正友の夭折により正之を養嗣子とし、慶長四年(1599)に徳川家康の養女満天姫と娶わせる。後継ぎとしての箔をつけたのだ。関ヶ原後の慶長六年(1601)に広島に入城し、正之を三原城に置いた。説明板では同年に正之が死去したことになっているが、一般的には慶長十三年(1608)に没したとされる。養父正則が幕府に正之の乱行を訴え、幽閉された後に餓死するという異常な死であった。
おそらく正則は、実子忠勝(慶長三年生まれ)がすくすくと成長したことから、後継ぎにしたいと考えるようになったからだろう。豊臣秀吉が秀頼を後継者にするべく、秀次を排除したようなものだ。
正則は元和五年(1619)に芸備両国を収公され、信濃高井野に移された。この時、正則は忠勝に家督を譲ったが、翌年には忠勝にも先立たれてしまう。失意の正則が亡くなったのは寛永元年(1624)のことであった。その後、福島氏は旗本として命脈を保った。
同じく宗光寺墓地、福島正之の墓すぐ近くに「浅野忠長(あさのただなが)の墓」がある。浅野氏は福島正則の後に広島に入城した大大名である。福島氏と同様に、三原城にも一族を置いて備後支配の要としたようだ。説明板を読んでみよう。
三原市史跡 浅野忠長の墓 一基
昭和三十六年四月二十八日指定
所在 三原市本町 宗光寺
墓は石造五輪塔で、高さ三m、石柵のなかに置かれている。
忠長(一五九二~一六六〇)は、三原城主の二代で甲斐守ともいう。初代忠吉にはあととりがなかったので、忠吉の次女の子(忠長)が養子に迎えられてあとを継いだ。忠長は、慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣、元和元年(一六一五)大坂夏の陣に父忠吉とともに従軍している。また、中央や地方でいろいろな事業にたずさわり、多くの功績があった。元和八年(一六二二)には、頼兼新開(よりかねしんがい)を、また、正保元年(一六四四)には横山新開(よこやましんがい)を拓き、寛永六年(一六二九)と同十四年(一六三七)には糸碕八幡宮を修理している。三原城もたびたび修理改造し、承応元年(一六五二)には三原において初めて関船「八幡丸」を建造している。
万治三年(一六六〇)広島て死去。年六十九歳。法号「実相院殿逃外周通大居士」。
三原市教育委員会
初代の浅野忠吉は、豊臣政権五奉行の浅野長政のいとこであり、浅野氏惣領家を支え続けた。浅野氏の広島移封からほどない元和七年(1621)に忠吉が亡くなると、加藤光泰の家臣である大橋清兵衛(妻は忠吉の娘)の子、忠長が養子として二代目を継いだ。干拓事業を進めたことが、忠長の代表的な治績といえよう。
その後、三原浅野氏は広島藩の筆頭家老を務め、12代続いて明治維新を迎え、近代には男爵に叙せられた。ことし令和元年(2019)は、浅野氏が元和五年(1619)に広島に入城してから400年で、三原も浅野氏の治下となって400年となる。市内で開催された「三原浅野氏入城400年展」では、4代忠義が着用した当世具足などが展示されたという。
現在の広島や三原の市街地の広さは、領主浅野氏による干拓事業のおかげである。大都市を長きにわたって平和に治めた浅野氏の治績は高く顕彰されるべきだが、人気度は毛利元就や小早川隆景にかなわない。市井の人々は平和を訴えるわりには、乱世というファンタジーの世界がお好きなようだ。
そう思うと、顕彰される機会のある小早川隆景や浅野氏はまだいいほうで、福島氏について語られることは少ない。悲劇的な死を遂げ三原に眠る福島正之の美しい宝篋印塔だけが、凛とした存在感を放っている。
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