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石造物の黄金期は鎌倉時代だと聞いた。この時代に美しい宝篋印塔がさかんに造られたが、背景には宋にルーツをもつ石工集団の存在があるという。また、ずいぶん前に宇治の「浮島十三重石塔」を見て、その巨大さに圧倒されたことがある。西大寺叡尊による弘安九年(1286)の建立である。
本日は備後三原で出逢った鎌倉時代の石造物をレポートする。
三原市本町三丁目の宗光寺に「宗光寺七重塔」がある。市指定重要文化財(建造物)である。
けっこう傷んでいるようだが、見晴らしのよい場所に立ち、三原市街との相性がよい。この大きな石塔から何が分かるのだろうか。説明板を読んでみよう。
三原市重要文化財 宗光寺塔婆(七層石塔婆)
昭和六十一年七月二十三日指定
所在 三原市本町 宗光寺
高さ二五〇・三センチメートル、花崗岩製。
相輪を欠失しているほかは、各部を完備しているが、背面が火に罹ったために基礎や塔身の剥離がひどく、相輪が揃っていれば、総高約三〇〇センチメートルの十尺塔であろう。
年代は鎌倉時代後期の前半の永仁(一二九三~九九)ごろで、大工心阿の作である。
銘文は塔身のキリークの面の月輪左右の空間に配しているが、向って右側は剥脱して痕跡もとどめず、左側に陰刻された二行が遺っている。
[ ](剥脱)
キリーク
大工心阿
第二天造立之 沙弥了□
三原市教育委員会
永仁といえば、中学生でも知っている永仁の徳政令だとか、世紀の贋作スキャンダルである永仁の壺事件を思い出す。宗教界では法然や親鸞、日蓮の新仏教が広まっていたが、イエズス会のような革新派の旧勢力も精力的に活動していた。それが叡尊であり忍性を代表とする西大寺教団であった。
本日紹介の宗光寺七重塔で手掛かりとなるのは「大工心阿」という石工の名前だ。心阿による石造物はいくつかあり、尾道市瀬戸田町御寺の光明坊十三重塔(国重文)はその美しさを誇る。永仁二年(1294)の建立で、忍性が建てたと伝えられている。
朝来市岩津の鷲原寺の不動明王(鷲原寺石仏群として県重文)にも永仁四年(1296)の紀年と心阿の名が刻まれている。また、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根字提灯山にある宝篋印塔(国重文)には、永仁四年(1296)の紀年と大蔵安氏という石工の名が刻まれ、正安二年(1300)の紀年と心阿の名が追刻されている。さらに、鎌倉市大町三丁目の安養院の宝篋印塔(国重文)にも徳治三年(1308)の紀年と心阿の名が刻まれている。箱根の宝篋印塔には「供養導師良観上人 正安二年八月廿一日 心阿」とあるが、良観とは忍性のことである。
鎌倉のイエズス会、西大寺教団は東西に教線を拡大し、信仰の対象として建てた石造物が今に伝えられている。鎌倉新仏教は浄土系や法華系、禅系ばかりではない。奈良仏教や真言密教の伝統を引き継ぐ西大寺教団も再評価すべきであろう。
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