かつて急行「砂丘」が物見トンネルを越えて岡山と鳥取を結んでいたが、今は特急「スーパーいなば」が志戸坂(しとさか)トンネルを越えて鳥取に向かう。遠回りなのだが早く着くのだから便利だ。
道路の志戸坂トンネルは高速道路の一部のように見えて、自転車はもちろん徒歩でも通行できる便利な道路だ。いや実は便利ではなく、ここが大雪や事故でふさがると、適当な迂回路がないのでとんでもないことになる。
そこで現在、3本目の志戸坂トンネルが計画されているという。現在のトンネルは昭和56年に開通した2本目で、1本目は昭和10年に開通したがすでに閉鎖されている。
岡山県英田郡西粟倉村坂根に「旧志戸坂隧道」の入口がある。1本目のトンネルである。
このトンネルの完成以前は、峠の頂を越える道だった。現在は「智頭往来志戸坂峠越」として国の史跡に指定されている。豪雨の影響で倒木があるが、峠道を登ってみよう。
志戸坂峠の頂近くに「開鑿(かいさく)碑」と刻まれた古い石碑がある。
題額は正五位千阪高雅、岡山県知事である。知事が主導した峠の改修は、明治20年に竣工した。碑文は漢字ばかりで読みづらいが、かつての峠道の厳しさが記されているので一部を抜き書きしよう。
坂路羊腸盤折紆回最極険峻呼云三十三曲方夏秋潦水暴溢之時土壌石露人牛車馬蹉跌顚覆焉春冬雪深車馬梗塞
坂道は曲がりくねって険しく「三十三曲」と呼ばれている。夏から秋にかけては雨で道が荒れ、人も車も牛も馬も転倒する。冬から春にかけては雪が深く、車や馬は通れない。
いま歩いてもけっこうな難所に思えるが、かつてはもっと厳しかったのだろう。この峠で命を落とした姫君がいる。津山藩主森氏の『森家先代実録』巻第六「忠政君御子御事実」には、次のように記されている。
一第一 御女子 御名は於松
天正十九年辛卯年、濃州金山にて生レ給ふ、御母ハ中川清秀の息女也、因州鳥取城主池田備中守長幸へ御婚姻有之、此節ハ諸侯の内室いつれも国元ニ居住也、依之作州より因幡へ婚姻し給ひ、慶長十六辛亥年、御年廿一にして出雲守長常ヲ生ミ給ふ、無程御煩上方へ御養生ニ御登の節、慶長十八癸丑七月十六日、作州吉野郡古町平内と云者の宅にて、御歳廿三にして卒去也(坂根村ニて卒ストモ云)
初代津山藩主の森忠政の長女は「お松」といい、池田輝政の甥で鳥取藩主家の長幸に嫁ぎ、めでたく世継ぎにも恵まれた。ところが、ほどなくして病を得て、上方で養生しようと鳥取を出立したものの、志戸坂峠を越えたあたりで亡くなってしまう。今の暦では残暑の厳しい時期だから、病身にはずいぶん応えたのかもしれない。
ここは山陰と上方を結ぶ主要道路で、貴賤を問わず古来多くの人が行き交った峠である。志戸坂峠の古代を語るうえで、欠かすことのできない記録がある。因幡守として赴任した平時範が記録した『時範記』だ。時範は承徳三年(1099)二月に志戸坂峠を越えて因幡に入った。津山朝日新聞社『作州のみち1峠・木地師の道』「志戸坂峠」に、旅の概要が記されている。
十三日に播州国府へ到着。十四日の朝八時に国府を出発し、午後二時に「美作国境根仮屋」へ着いたとある。その夜、境根(坂根)に泊まった時範は、因幡国府へ使者を送って、境迎え(さかむかえ)の故実を問わせている。
十五日は「雨雪」とあり、おそらく“みぞれ”模様であったのだろう。早朝、時範は、束帯(正服)、帯剣に身を正し、黒毛の馬に乗って境根を出立した。「鹿跡御坂」(しとのおんさか、しとのみさか・志戸坂)の頂に着くと下馬し、迎えていた因幡国府の役人と対面した。国府役人の自己紹介に、時範が応えて境迎えの儀式を終わっている。
ここで訂正。十三日に到着したのは、播磨国府ではなく佐余(佐用)である。また、鹿跡御坂は「ししとみさか」と読む。十四日に境根(坂根)に泊まり、翌十五日には志戸坂峠の頂で因幡入りの儀式を行った。今の暦では春まだ浅い時期だから、雪が残り、ぬかるみも多かったのではなかろうか。
平安の昔から陰陽連絡に大きな役割を果たした志戸坂峠。ここが塞がると、はるか西の黒尾峠まで迂回せねばならない。交通の安定性を確保するため、史上3本目のトンネルが掘られようとしている。峠をいかに越すかは、今も昔も、そして旅でも人生でも、思案のしどころなのである。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。