「仮定の質問にはお答えできません。」という逃げ口上を政治家の記者会見でよく耳にするが、「現時点で、もし我が国の原発が弾道ミサイルで攻撃を受けたらどう対処するのですか?」に答えられないようでは、国民の安全を保障する政府として失格だろう。
「もし吉田松陰が生きていれば、日本はどうなったとお考えですか。」そんな「たられば」なら答える意味がない。事実に基づかない議論は収束することがないからだ。だが、そういうたらればを考えるのも歴史の面白さの一つだろう。
安政の大獄で吉田松陰に下された判決は当初「流罪」だったが、大老井伊直弼が「死罪」に改めたのだという。松陰が生きていれば…。
たつの市新宮町新宮に「新宮藩陣屋跡」がある。木の標柱には「旗本陣屋趾」とある。
この地に一万石の藩があったという。新宮藩である。寡聞にして知らないが、どのような大名が治めていたのだろうか。陣屋跡に立つ「売物件」の幟が気になるが、説明板を読んでみよう。
新宮藩の藩祖池田重利(しげとし)は本願寺坊官の下間(しもつま)氏の出身であるが、母が池田輝政の姉という関係から池田家に仕えるようになり、その才知と武勇が認められ、慶長十八年(一六一三)に主君と同じ池田姓を名乗ることが許された。その後、大阪夏の陣の軍功により摂津に領地を与えられて大名となり、後に播磨へ一万石で移封され最初は鵤(太子町)に陣屋を置いたが、近隣の竜野・姫路藩本多家との争いが原因で寛永三年(一六二六)に陣屋を新宮に移した。
寛永八年(一六三ー)に重利が没した後は、二代重政(しげまさ)・三代薫彰(てるあきら)・四代邦照(くにてる)と続き、寛文十年(一六七〇)に邦照が継子を残さず病没したため廃絶となるが、本家岡山・鳥取藩主の奔走により弟の重教(しげたか)が三千石の新規旗本に取り立てられた。その後、池田家は明治まで旗本として存続し、幕末には頼方(よりかた)(十二代)が奈良奉行・勘定奉行・江戸町奉行となり活躍している。
当時の絵図によると陣屋の南北(元町一帯)に家臣の屋敷が配置されており、こころん広場のある所は家老水谷氏の邸跡である。
平成二十一年三月 たつの市教育委員会
藩主は池田氏であるが、その姓は池田輝政から与えられたもので、もとは下間氏だったという。寛文十年に旗本となってからは子孫連綿と明治に至ったが、本日は幕末に活躍した十二代の頼方に着目したい。数々の奉行を歴任した能吏、池田頼方は歴史の重要場面に次のように登場するのだ。維新史料編纂事務局『概観維新史』明治書院(昭和15)の第二章「朝権の伸張」第五節「安政の大獄」を読んでみよう。
是に於いて幕府は之が断獄を行はうとして、寺社奉行板倉周防守勝静・町奉行石谷因幡守穆清・勘定奉行佐々木信濃守顕発・大目付久貝因幡守正典・目付松平康正(久之丞)を以て五手掛を組織した。幾ばくもなく掛員間に寛厳両様の意見が対立したので、寛典を主張する勝静・顕発を罷めて、更に町奉行兼勘定奉行池田播磨守頼方(世上首斬池田と言うた)・寺社奉行本荘宗秀を任命し、陣容を新にして、京都・江戸其の他で逮捕した者の訊問を開始した。
吉田松陰をはじめとする憂国の志士たちを裁いた奉行の一人が、池田頼方なのである。「首斬池田」という異名からは厳格な人柄が想像できる。反体制派を徹底的に弾圧し、何が何でも幕府を維持しようとしていたのか。先ほどの『概観維新史』には、気になるつぶやきがある。
伝へ言ふ、井伊大老は五手掛の断案に対して、罪一等を加へたと。
ということは、池田らが下した判決は「流罪」だったのだろう。これを赤鬼井伊がさらに厳しく処断したというわけだ。池田頼方は必ずしも「首斬」ではなかった。最高裁判事として、その良心に従い、独立してその職権を行っていたのである。
仮に松陰が流罪となって生きながらえ、明治維新を迎えたとしよう。新政府でどのような役割を果たしたのか。松陰の同級生に大久保利通がいる。松陰は大久保に代わって明治維新を完成させたのか、大久保と対立して新政府に叛旗を翻したのか。すべては仮定の話なので、「仮定の質問にはお答えできません。」
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。