新日鉄、住金、川鉄…私になじみのある鉄鋼メーカーがいつの間にか消えていた。JFAだかJFLだかJFEだかイマドキの名称になっているかと思えば、日本製鉄という戦前回帰かという会社名も登場した。都道府県別の生産量では愛知、兵庫、千葉がベストスリーである。いずれの県でも港湾都市に工場が立地している。
ところが、かつて山の中で鉄の生産が行われていたことを話題にする人は少ない。中国山地一帯の鉄の生産量は、江戸時代後期の最盛期には国内総生産量の大半を占めたという。本日は鉄山の名残を求めて岡山県北東端を訪ねたのでレポートする。
岡山県英田郡西粟倉村大字大茅に「永昌山鉄山タタラ跡」がある。右の朽ちかけた標柱には「大門跡(鉄山入口)」と記されている。
現在は植林によって美しい森となっているが、ここに江戸期の鉄鋼コンビナートがあったのだ。苔むした石垣が残っており、わずかに往時を偲ぶことができる。道路沿いにある説明板を読んでみよう。
人類が鉄器の生活に入った頃から変わらない長い歴史のある、砂鉄の大産地でした。
この鉄山の鉄鋼で鍛えられた刀剣は、南朝忠臣楠一族や有名な三大仇討の一つ赤穂浪士の仇討の時にも用いられたと伝えられています。
今でもかんないで跡、砂鉄採掘跡、本炉跡、鉄池、金屋子神の祠跡、職人屋敷跡、などが現存する。
なんと南朝忠臣だとか赤穂浪士だとか、ビッグネームが登場した。調べると楠木正成や大石内蔵助は、備前長船ものの名刀を所持していたと伝えられている。名刀長船の原料となったのが千種鉄で、今の宍粟市千種町西河内にあった天児屋(てんごや)鉄山が産地である。
天児屋鉄山と永昌山鉄山はミソギ峠(今の峰越峠近くにあった)で結ばれ、炭焼きの原木や砂鉄を相互に買い入れていたらしく、両者には深い関係があった。とすれば、永昌山鉄山の鉄鋼にまつわる言い伝えに、「南朝忠臣楠一族」や「赤穂浪士の仇討」が出てきてもおかしくない。
永昌山鉄山は明治半ばに操業を停止したようで、当時を知る人はもういない。ただ、津山朝日新聞社『作州のみち2(下)鉄(たたら)の道』「英田郡西粟倉村永昌山タタラについて」には、次のような貴重な証言が記録されている。
「永昌山には、いま地蔵が置いてあるところに門があった。そのかみ手に、天野屋利兵衛の伝えがあるヌマの入り口のところにも奥の門があった。淡路から芝居が来ていた。八幡、カナヤゴ、モトヤマを祭っていた。砂鉄を採るのに、兵庫県側から山を掘り崩して岡山県側に入ってくるので、県境がかわるといってケンカウトといっていた。(ウトは、砂鉄採取のために土砂を掘り取ったところ)」
大門跡の写真には、お地蔵さまも写っている。かみ手に天野屋利兵衛の伝えがあるという。車道を奥へ進むと、説明板が見つかった。
同じく大字大茅に「天野屋利兵衛は男でござる 天野屋利兵衛潜居の地」がある。
唐突な印象を受けるが、ここは忠臣蔵ゆかりの地である。どういうことだろうか。説明板を読んでみよう。
元禄15年(1702)12月14日播州赤穂浪士の仇討が遂げられましたが、その陰に義商天野屋利兵衛が、この地に潜居して浪士の武具を調達したと伝えられています。
身は町人でありながら武士にもまさる「天野屋よ」と賞賛された義侠の魂は、永呂山の名と共に残るでしょう。
天野屋利兵衛は、武具調達について奉行所から追及されても、「天野屋利兵衛は男でござる」と啖呵を切って、討入成功まで決して口を割らなかった。名台詞の一つとして人口に膾炙している。永呂山は永昌山の誤りか。
もっとも利兵衛という義商がフィクションなので、おそらくは永昌山鉄山→千種鉄→名刀長船→大石内蔵助→天野屋利兵衛という連想で史跡が生まれたのだろう。先述の証言にあるように「淡路から芝居が来ていた」ことから、忠臣蔵を観た人々が物語を書き足したのではなかろうか。
かつての重工業地帯はいま、美しい自然に還ろうとしている。苔むした石垣と利兵衛の言い伝えがかつての繁栄をわずかに物語る。いっぽう現代の生産拠点、JFEスチール西日本製鉄所には、小学校5年生が社会科見学によく訪れている。熱く真っ赤な鉄の迫力に歓声があがるそうだ。
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