聞くところによると昨秋、播州龍野に「赤とんぼからし」という新しいお土産が誕生したそうだ。国産唐辛子にもち米を混ぜて、赤とんぼの形に固めたもので、うどんの上にのせて食べる。白地に赤くトンボが飛び交い、インスタ映えしそうな絵面だ。
龍野といえば「赤とんぼ」、市のイメージキャラクターは「赤とんぼくん」、眺めのよい国民宿舎は「赤とんぼ荘」である。ここは国民的童謡「赤とんぼ」の作詞者・三木露風の生誕地なのだ。本日は露風ゆかりの地をレポートしよう。
たつの市龍野町中霞城(なかかじょう)に「三木露風旧邸跡」がある。
ここは生家ではなく「旧邸跡」である。「三木露風生家」は近くの上霞城(かみかじょう)にあり、保存公開されている。ならば、この旧邸は、露風とどのようなかかわりがあるのか。説明板を読んでみよう。
露風、本名操(みさお)、明治二十二年生れ。七歳の時父母の離婚後、祖父制(すさむ)(脇坂家の家扶・初代龍野町長)の下で養育された。明治四十二年「廃園」をはじめとする詩集によって、白秋と共に「白露時代」を現出。童謡「赤とんぼ」は広く全国に愛唱され続けている。
晩年を東京都三鷹市に過ごした。
昭和三十九年七十六歳で没。
露風は明治28年(満6歳)まで生家で育ったが、父母の離婚後は祖父の家で養育された。旧宅とは祖父宅であり、ここから龍野尋常小学校、伊水(のち龍野)高等小学校、県立龍野中学校に通った。そして明治37年(満15歳)に私立中学閑谷黌に転学するまで、この家で過ごしたのである。
お母さんと離れ寂しい思いをしてる露風の面倒を見てくれたのは、宍粟郡出身で子守り奉公に来ていた「姐や」だった。夕焼け小焼けの赤とんぼを「負われて」見たのは、姐やの背からのことである。
明治34年、高等小学校三年生(満12歳)で「赤蜻蛉 とまつてゐるよ 竿の先き」という句を詠んだ。これは将来、童謡「赤とんぼ」の4番として採り入れられていくこととなるだろう。つまり、この祖父宅で暮らしていた頃の思い出が、童謡「赤とんぼ」の情景である。たつの市が「赤とんぼ」を前面に押し出してPRしている背景には、こうした「赤とんぼ」発祥の地としての自負心があるのだ。
ただし、「姐や」が奉公していたのは祖父宅ではなく、生家だという解釈もある。露風が幼い頃のほうが、姐やにとっておんぶしやすいのは確かだ。いずれにしても、露風がノスタルジックに描いた「あの頃」の情景を、生まれ育ちの境遇が異なる私たちは、母や祖母、または実の姉に重ねながら、それぞれの「あの頃」を思い出している。たつの市では一日三回「赤とんぼ」のメロディが流れるそうだ。
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