楽天が「送料無料」とすると言い出して物議をかもしている。そりゃそうだ。親切で運んでいるわけじゃないんだから、送料は無料ではない。ならば、と「送料込み」だと言い換えた。アマゾンに対抗して消費者の気持ちをつかもうとしているのだろうが、迷惑なのは出店者だ。
良品はあれど販路を持たない出店者は、膨大な顧客を抱える楽天の方針にあらがうことができない。これこそマルクスの指摘する大資本による中小資本の収奪ではないか。
岡山県久米郡久米南町里方の誕生寺境内に「原田三河貞佐(さだすけ)の墓」がある。
原田氏はこの地域の有力武将である。有力とはいえ国人レベルであり、宇喜多氏や毛利氏のような戦国大名級ではない。以前に「盛者必衰の戦国美作」という記事で、尼子氏(1559)や毛利氏(1569)が造営した神社を紹介したことがある。さすがは大資本だけあって、たいそう立派な本殿を寄進し人々の歓心を買おうとしている。
本日紹介の原田氏は中小資本だが、地元への貢献活動なら負けてはいない。こちらは法然上人の生誕地にある誕生寺の本堂(御影堂)を、永禄十二年(1569)に寄進している。原田氏とはどのような国人領主なのか、説明板を読んでみよう。
原田氏は平安末期から十七代四九八年を美作に居城す。
十五代稲荷山城主、三河守は努力回復保持し当寺寺領百石を寄進、天正六年の罹災の際、裸馬にて馳せつけ助援の他、多大なる貢献者。原田十八代は当寺十三世願誉和上である。
三河守は天正十四年十二月寂
原田氏は17代498年間もこの地域に勢力を有していたという。乱を起こして名が残る平忠常を祖先に持ち、その子忠高が肥前原田に住して原田氏を称し、忠高の曾孫興方が保安四年(1123)に美作に流されてきて以来の名族である。ところが実際には、十五代貞佐以前の人物の事績はよく分からないそうだ。
貞佐が誕生寺に寺領百石を寄進したのが弘治二年(1556)、御影堂の寄進が永禄十二年(1569)、その御影堂は日蓮宗に肩入れする宇喜多直家によって天正六年(1578)に破壊されてしまう。貞佐が亡くなったのは天正十四年(1586)のことである。
久米郡美咲町原田と西幸にかけて「稲荷山城跡」がある。写真は主郭の小祠と土塁である。
原田三河守貞佐はここを居城としていた。大資本の浦上氏と宇喜多氏が対立する天正二年(1574)、宇喜多方の花房職秀とともに岩屋城を攻撃し落城させている。ところが宇喜多氏によって大切な御影堂が破壊されたのは上記のとおり。中小資本の悲哀がここに見て取れる。十五代貞佐から四代について、平凡社『岡山県の地名(日本歴史地名大系34)』には次のように記されている。
三河守貞佐は備前福岡の戦いで左足に傷を受け、無足の三河といわれた。その子行佐は宇喜多氏に属した。行佐の子忠佐は朝鮮出兵に従うが、騒擾を起こして豊臣秀吉の怒りに触れ帰国した。その子は父の遺命で出家し、誕生寺の住持となった。
美作は最終的に大資本宇喜多氏の商圏に落ち着き、中小資本原田氏もその傘下で活動することとなる。十七代忠佐が秀吉の怒りを買ったというが、何があったのだろうか。『作陽誌』には次のように記されている。
朝鮮之役家奴因醉相闘撃行隊騒擾秀吉怒犯軍禁責忠佐卒使放還作州忠佐失志没世不復出元和七年九月卒
朝鮮において家人が酔った勢いで喧嘩を始めた。これが軍律違反だと秀吉が怒り、美作へ帰国させられた。失意の忠佐は世に出ることなく、元和七年(1625)に亡くなった。こうして地元の老舗原田氏は終焉を迎えたが、その頃は大資本宇喜多氏も消え去り、巨大資本徳川氏の独占市場が形成されていた。
さて巨大資本アマゾンに立ち向かう楽天はどうなる?優越的な立場を振りかざして出店者を圧迫しているのではないか。公正取引委員会が独禁法違反の疑いで立ち入り検査を実施した。商売は「三方よし」という信用が大切であり、「消費者によし、出店者によし」となって「世間によし」という評判が生まれてくるのだ。こんな話題もアマゾンは、高みで笑いながら聞いているだけかもしれない。
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