トランプ米大統領は、自分たちが絶対的な正義かのように相手を激しい言葉で攻撃する。言われたほうは対話する気が失せ、妥協点は永遠に見いだせないようだ。我が国のネット上の言論でも同様で、対話ではなく好き嫌いの表明をしているにすぎない。まさに「分断の時代」である。
ただし、分断は歴史的には決して珍しいことではなく、むしろ分断が歴史を動かしてきたように見える。憂国の思いを抱いた若者たちの志が気高く描かれる幕末もまた、分断の時代であった。
鳥取市安長に「山口謙之進正次墓所」がある。右の碑には「嗚呼維新 山口謙之進正次 英傑悠久」と刻まれている。謙之進は父遊圃(虎夫)の墓に葬られているという。
明治維新150年を記念して、平成30年に鳥取市歴史博物館で「鳥取の明治維新」という特別展が開かれた。時の藩主池田慶徳(よしのり)は徳川慶喜の兄であり、尊王攘夷を主張しつつ公武合体路線を支持する現実的な対応をしていた。ところが、水戸藩や長州藩がそうであったように、守旧派と尊攘派の対立が激化し内ゲバが発生するのである。
展覧会に鳥取県立博物館蔵の「本圀寺事件 二十士寄書」が出品されていた。文久三年(1863)8月17日、京都本圀寺において鳥取藩の尊攘派藩士22名が、藩主側近を君側の奸として襲撃し4名が死亡した。襲撃した22名のうち1名は自害、1名は逃亡し、残り20名は謹慎処分となった。幕末のテロ事件の一つである。
「二十士寄書」は謹慎していた20名が記した和歌、漢詩、絵などの寄書で、二十士のひとりである山口謙之進が旧蔵していたものである。山口は維新後、内務省や大蔵省に出仕した。寄書は大正十一年(1922)まで山口の手元にあったらしい。この年に山口は83歳で亡くなっている。
明治となって、二十士のうち最も出世したのは河田景与(かわたかげとも)で、鳥取県初代権令や元老院議官を務め子爵を授けられた。次は足立正声(あだちまさな)で、宮内省の官僚として活躍し男爵を授けられた。
いっぽう殺害された黒部権之介らの遺族は、藩の許可を得て4人の仇討に成功する。手結浦(たいのうら)の仇討ちと呼ばれる慶応二年(1866)の出来事であった。
本圀寺事件の翌日、つまり8月18日に京都でクーデターが起き、一転して公武合体派が有利となる。仮に先に政変が起きていれば、尊攘派の河田らも自重して事件を起こさなかったかもしれない。運命とは分からないものだ。
さまざまな出来事が絡み合いながら、世の在り方をめぐって人心の分断が進み、多くの命が失われた。確かに明治維新は偉業であるが、血を流すことなく世の中を変えていくことがいかに難しいかを物語っているようにも思える。分断がもたらす悲劇を回避するために、私たちは汗を流さねばならないのだ。
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