けこ(下戸)ニて我々かやうになかいきつかまつり候、さけのミ候ハすハ、七十八十まてけんこに候て、めてたかるへく候/\
下戸だから私はこのように長生きしたのだ。酒を呑まなければ、70、80歳まで健康でいられて、誠にめでたいことだ。「毛利家文書」599
これは毛利元就が孫の輝元の母に宛てた書状の一節で、輝元に酒を呑ませないよう忠告したものである。実際に元就は75歳という長命を保つことができた。頭が下がる思いだ。謙虚な気持ちで、元就の生誕地を訪ねることとしよう。
安芸高田市吉田町福原(ふくばら)に県指定史跡の「毛利元就誕生伝説地(鈴尾城跡)」がある。
元就の母は福原氏である。福原氏といえば、幕末の長州藩において、禁門の変の責任を取らされて自刃した家老、福原越後が有名だ。越後は24代当主だという。今日紹介の史跡に関係が深いのは8代当主の広俊である。説明板を読んでみよう。
県史跡指定 一九四〇(昭和十五)年十一月十日
福原氏は大江氏の子孫である。大江広元の次男時広は、武蔵国長井荘を領してから姓を長井とし、四男秀光は相模国毛利荘を領してから姓を毛利とした。
永徳元(一三八一)年毛利元春の五男広世は長井氏を相続して第六代の当主になり、父元春から安芸国内部荘福原村を譲られてこの地、鈴尾城(福原城)に移り住み姓を福原と改めた。
第八代広俊の娘は毛利弘元の妻となり、長男興元が誕生し、次男元就は明応八(一四九七)年三月十四日、母の里であるこの城内で誕生したという。
天文九(一五四〇)年の郡山合戦では第十代広俊がこの守備にあたり西に備えた。
慶長五(一六○○)年第十三代広俊は毛利輝元に従って防長に移ったが、この間八代二一九年間にわたる福原氏の居城であった。
鈴尾城跡は別名福原城とも呼ばれ、前面には江の川が流れ、標高三一六m、比高一一〇mの頂部に本丸等十壇の郭を配し、西側下の井の壇に直径一・〇m、深さ六mの石組みの井戸があり、東側斜面には居館跡と伝えられる広大な平たん部がある。そこは、毛利元就誕生地として伝えられ碑が建てられている。
二〇一四(平成二十六)年三月 安芸高田市教育委員会
この城は元就の母の実家だったのだ。居館があった「土居の壇」には昭和13年に石碑が建てられた。碑には「毛利元就卿誕生之地」と刻まれ、揮毫は27代当主の「従三位勲三等男爵福原俊丸」である。
鈴尾城の本丸に上がると「福原城址」の石碑がある。毛利元就生誕五百年を記念して平成九年(1997)に建てられた。この年の大河ドラマは『毛利元就』だったから、多くの人がこの城跡を訪れたことだろう。ドラマに出演したのは10代当主の広俊で、日本一の名脇役笹野高史が演じた。
城の東側に福原氏の菩提寺、楞厳寺(りょうごんじ)跡があり、「福原氏墓所」として市の史跡に指定されている。
苔むした石垣や五輪塔が往時の繁栄を伝えている。墓所は二か所あり、上の写真が東墓所で下が西墓所である。東墓所には釈迦堂という建物もある。詳しいことが説明板に記されているので読んでみよう。
町史跡指定 一九六八(昭和四三)年九月一日
楞厳寺は、十代広俊の菩提寺で、開山は僧真如厳甫による禅寺である。防長移封により現在萩市にあり、十三代元俊によって故郷の地名を山号として福原山徳隣寺と改称されている。下の段の竹藪東端が境内であったという。
左の釈迦堂は十一代貞俊が先祖を祀った信仰の御堂という。
福原氏の墓所は、芸藩通志によると八墓とされているが、福原氏末裔の墓誌によると東西の墓所に五墓とある。
東墓所を右からの墓誌によると、「福原大江朝臣広俊」(十代)の墓で次は「福原大江朝臣貞俊」(十一代)の墓であり、次は「祥室妙吉禅尼墳墓跡」で毛利弘元の妻であり元就の母の墓跡である。大正十年に毛利、福原両氏の協議によって多治比の弘元の墓地に改葬された。
西墓所は五十m離れた所にあり右から「福原広俊息女」の墓であり、左が「福原大江朝臣元俊」(十二代)の墓である。
一九九五(平成七)年三月 古田町教育委員会
元就のもとで活躍したのが10代広俊、若き輝元を支えたのが11代貞俊と12代元俊であった。楞厳寺は11代貞俊が父広俊の菩提所として創建した寺で、関ヶ原敗戦に伴う防長移封の危機に対処したのは13代広俊である。説明文中の「十三代元俊」は誤りだろう。
宇部ふるさと酒義の会という地元団体が、「貴」で知られる永山本家酒造場と協働して「芳山」という日本酒を作った。「宇部村発展の基礎をすえた恩人・福原芳山公を讃えて名前をいただいた」ことに加え、米作りから醸造まですべて宇部にこだわったという。
福原氏は14代元俊以来維新に至るまで宇部の領主であった。福原芳山公は名を良通といい、福原越後の後継者で最後の宇部領主、そして男爵となった俊丸の父である。宇部の石炭産業発展の礎を築いた人物として敬愛されている。毛利元就の子孫や主君を忠実に支え続けた福原氏が、元就の節酒の戒めを守ったのかどうかは知らないが、領民は酒を適度に楽しんでいるようだ。
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