大河「麒麟がくる」で帰蝶を演じる川口春奈は、エリカさまの代役どころか、存在感のある看板である。先日の放送では、光秀を意識しながら、ついに信長のもとへ嫁いだ。その帰蝶とか濃姫とか呼ばれる女性は、日本史上最も有名な武将の正室であるにもかかわらず、いつどこで亡くなったのか明らかでない。もしかすると、明智光秀謀反の動機よりも大きな謎かもしれない。
このブログでも「その後の濃姫」という記事でお墓を紹介したことがあるが、諸説あることには変わりない。帰蝶でさえこうなのだから、いわんや五龍姫においてをや。本日は、毛利元就の娘のお墓を探しに出掛けたレポートである。
広島市安佐北区白木町井原に「五龍姫墓所伝承地」がある。右端の石の上に小さな宝篋印塔が積まれていたようだが、イノシシの仕業だろうか、倒壊している。それを、これまた小さな石仏が静かに見守っている。
濃姫が美濃から来た姫という意味で本名でないのと同じように、五龍姫は五龍城へ嫁いだ姫という意味である。毛利元就が五龍城の宍戸隆家のもとに五龍姫を嫁がせたいきさつは、本ブログ「龍が守護する名城と名水」に記している。天文三(1534)年正月十八日、毛利元就自ら五龍城を訪れ婚約を決めたのだという。
五龍姫は夫隆家との仲は睦まじく5人の子に恵まれたが、険悪だったのは弟の吉川元春との関係であった。毛利家文書544「毛利元就自筆書状」には、次のように記されている。宛先は二人の兄の隆元である。
五竜局かた元春半之儀、其事にて候/\、元春分別不行届候と内々存候而、就此儀者無曲存候、妙玖草のかけの事も吾等同前たるへく候/\、
五龍姫と元春との仲のことじゃ。お前もよく知っておろう。わしは元春の分別が足りぬと内々に思うておるが、これについては頭が痛い。母さんも草葉の陰で案じておるだろうが、わしも同じじゃ。
お父さん元就もずいぶん困っているようだ。元春の気性の激しさは大河ドラマでもたびたび描かれているが、姉さんにまで腹を立てるとは。文句を言われた五龍姫も、笑って受け流すような人でなかったのかもしれない。
その五龍姫、本名は「しん」といい、天正元年(1573)に亡くなっていることが分かっている。このあたりは濃姫とは大違いだが、墓の伝承地は4か所もある。本日紹介したのはその一つである。
五龍姫の5人の子のうち、唯一の男児の名を元秀という。父の隆家が亡くなるのは天正二十年(1592)だが、家督を継承したのは元秀の子の元続(もとつぐ)とされる。
同じく白木町井原の高源寺の裏手に「宍戸元秀墓所伝承地」がある。こちらも倒壊している。
天文十六年(1547)生まれの元秀は病弱だったと伝えられるが、早世したわけではないようだ。一説には51歳で亡くなり、晩年は玄翁と称していたというから、この地に隠棲していたのかもしれない。
永禄六年(1563)の毛利隆元自筆書状案(毛利家文書685)に、若き元秀が登場するので読んでみよう。宛先は宍戸隆家・しん夫妻である。
幸鶴丸縁事申談候、弥長久之辻、目出候、万一又忰家之ため幸鶴縁辺之御理申入子細候ハん時ハ、海賊殿御縁可申談候、
うちの息子輝元と貴家のお嬢様とのご縁談のはこび、まことにおめでたい事でございます。ただ万が一、我が毛利家に事情が生じて、このお話を無かったことにする場合には、海賊殿(宍戸元秀)と私の娘(実際には吉見氏に嫁いだ)との縁談を相談しようと思います。
なんじゃそりゃ、本気で縁談をまとめる気があんのかという感じだが、毛利家には下心があった。有名な大友宗麟の娘との縁談があったからである。結局は何事もなく縁談は進んだので、海賊殿こと元秀は内藤興盛の娘(毛利隆元の正室の妹)を正室に迎えることになる。
五龍姫と嫡男元秀にも、さまざまなドラマがあったことが、毛利家文書から垣間見える。ときは戦国、理不尽なことを耐え忍ぶ場面も多かったろう。倒壊しているお墓は、宍戸母子の苦労を物語っているように思えてならない。
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