現在品切れ状態のマスクは、大きく分けて三種類ある。昔ながらの平型マスク。布製で洗えるので私も一枚持っている。次に、もっともよく見かけるプリーツ型マスク。手元の在庫も心許なくなってきた。そして、立体型マスク。隙間のできにくい優れモノだが、どこか烏(カラス)天狗に似ている。
その烏天狗を御神体にしている神社にお詣りしてきたのでレポートする。
安芸高田市甲田町上甲立に「宍戸司箭(ししどしせん)神社」が鎮座する。ここは県指定史跡の五龍城跡で、以前にレポートしたように、長州藩毛利氏の一門筆頭として重きをなした宍戸氏の居城であった。宍戸隆家が毛利元就の娘婿となるなど、両氏は深く結び付いていた。
平成30年は宍戸隆家生誕500年記念ということで、安芸高田市歴史民俗博物館で「安芸宍戸氏~毛利一族、四本目の矢~」と題した企画展が開かれた。烏天狗像はここに展示されていたのである。解説を読むと、この像は宍戸司箭神社の御神体で、宍戸家俊の姿を表している可能性があるという。家俊は隆家の祖父の弟に当たる。
いったい、この神社にはどのような由緒があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
当社は五龍城主第六代宍戸元家の三男家俊を祀る。家俊幼より武を好み大いに精進し遂に其の妙得、長じて厳島に参籠昼夜潔斎して「武名を天下に顕わして永く其の名を残させ給え」と祈願霊験あって倉の鍵一つを授けらる。家俊怒って曰く「我富貴を望まず此の鍵何の益なし」と、其の鍵を投じ更に参籠七日、又霊験あって白羽の矢一手と、不動明王の画像一幅を賜い、「之をもって愛宕山に登り魔法を修業せよ必ず天下に其の名を顕わすべし」と、家俊二種を三戴九拝し神前に於て司箭と改名直ちに愛岩に至り、難業苦業遂に神通力を得、居ながら宇宙の変化を知り須臾にして千里を走るに至ると、其の妙上聞に達し、正親町帝の天覧に供したと云う。今も愛岩本社の右脇に司箭を祀る小祠あり。鎮火風病災難除けの守護神として崇敬せらる。又家俊は薙刀司箭流、剣法貫心流の始祖武神として崇敬せられた。
家俊出生のこの地に当社の勧請せられたのは寛延二年十二月、爾来当地方に於ても諸病諸災難除けの神として、又武神として崇敬せられ、江戸時代正月には遠近より藩士剣士多く参詣武芸の上達を祈顏し、奉納仕合を行う等広く士民に崇敬せられた名社である。現社殿は昭和十三年改築同四十年大補修したものである。
昭和四十六年八月 甲田町教育委員会
須臾(しゅゆ)とは10のマイナス15乗で一瞬のこと。司箭と改名した宍戸家俊は、宇宙の変化を察知し瞬間移動できる神通力を得たという。安芸の国人、宍戸氏の中では異色の人物だ。広島藩に伝わった古武道の貫心流剣術、司箭流長刀の始祖と崇められ、さらに系譜をさかのぼれば源義経、鬼一法眼に連なるという。
ここまでくると司箭の実在が疑わしく感じられるが、展覧会では関白九条尚経(ひさただ)の日記『後慈眼院殿日記』(明応三年九月二十四日条/1494)に、司箭が登場することが紹介されていた。関係部分を読んでみよう。
抑細川右京大夫近日従安芸国所上洛之命山伏司箭、於鞍⾺寺令修兵法
管領の細川右京大夫政元は強力なリーダーシップを発揮し幕政を動かしたが、修験道に没頭したことでも知られている。その政元が安芸国から上洛した山伏司箭を師として修業したというのだ。細川氏と安芸国人は浅からぬ関係があり、修験道に通じた宍戸家俊が司箭という名で管領に近侍したとしても不思議ではない。
先の見通しが持てないのはいつの時代もそうだが、とりわけ新型コロナ騒動の収束については、その兆しさえ見えてこない。やはりここは、居ながらにして宇宙の変化を知ることのできる司箭さまに鎮めていただくしかあるまい。私たちも自重いたしますが、どうか神通力のお力添えを…。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。