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旅人の心をもっとも動かすのは峠である。ある人はお地蔵さんに旅の安全を祈り、ある人は茶屋で長旅の疲れを癒した。また、ある人は親しい人との別れを惜しんだ。そして、ここに出迎えに来るからねと、見送る人は無事の帰りを祈ったという。法然上人のお母さまが京へ上る息子を峠(小原乢)で見送ったことは、先日紹介している。
安芸高田市甲田町高田原(こうだちょうたかたばら)と三次市三和町羽出庭(みわちょうはでにわ)の境あたりに「馬通(まどおし)峠」がある。
大きな石碑は戦後五十年を記念して平成七年に建てられた。「訣別の跡 馬通峠」と刻まれている。峠の場所を示すのみならず、この峠から戦地に向かった若者に思いを寄せる慰霊碑でもある。隣の碑誌には次のような文がある。
ここ村境馬通峠の丘に立ち、村民こぞっての盛大な見送りを受け、一死報国を誓って戦場に赴いた若人は七百余名。
ひたすら祖国の安泰と繁栄を願って北に南に転戦し、苛烈な戦いの中で望郷の念空しく最後を遂げ、再びこの地を踏むことのできなかった者は、百九十一名を数える。
峠の西側に位置する旧坂木村の若者は、峠に並んで村長の激励、万歳の声に送られて、役場が用意した車で国鉄の駅に向かったという。碑文は馬通峠を「生と死を分けたこの訣別の地」と呼んでいる。巨石が平和を願う思いを強く語るかのようだ。
峠の歴史をさらにさかのぼってみよう。地理的にはどのような意義があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
昔この峠は備後国と安芸国の境になっていた。地名の由来については、急峡な坂道の為、馬も倒れる「馬倒し」が訛って「まどおし」となったと言い伝えられている。
江戸時代に峠を含むこの道は「御通筋」といわれていた。それは浜田藩・毛利藩などの石州・長州諸藩が江戸や大阪と国を結ぶ近道として、この峠が尾道・甲山・小国・吉田・八重を結ぶルート上に位置していて、頻繁に利用されていたからである。
ざっくり言えば広島県を斜めに横断するルートで、浜田から尾道へと抜ける近道だったようだ。この御通筋で芸備国境に位置していたのが馬通峠である。今は自動車であっという間に通過してしまう峠だが、これは明治以来たびたび切り下げや拡幅が行われてきたからである。私も快適に峠を通過したが、大きな石碑が気になり引き返したおかげで、峠の意義を知ることができた。
この日、吉田の安芸高田市歴史民俗博物館を訪れていた私は、尾道方面の帰路をルート検索したところ、結果的に「御通筋」を通ることになった。石州諸藩の武士も現代のカーナビも、どうやら考えることは同じのようだ。
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