2020年がこんな年になろうとは、年頭に誰が想像しただろうか。ついに緊急事態宣言が全国に発せられた。リーマンショック以来、世界恐慌以来と経済の落ち込みが話題になっているが、私はそれ以上に価値観さえ変化するパラダイムシフトが生じるのではないかと危惧している。
感染を防げなかった自由社会よりも安全を守った管理社会が高く評価されるのではないか。ICTが発達して多くの業務が移動なしにできるようになるが、人々の行動を管理するためにも大いに活用されるのではないか。
日本でも行動制限しないなら約42万人が死亡すると厚生労働省のクラスター対策班が試算したそうだ。その行動制限を自粛要請だけで達成できるなら自由社会の勝利と言える。これが失敗に終われば…。いずれにしろ2020年は歴史年表に節目として記載されるだろう。私たちはいま、歴史が動く瞬間に立ち会っているのである。
昭和49年(1974)3月7日20時35分、私は歴史的な瞬間に立ち会うため、テレビの前でスプーンを持った。超能力時代の幕開けである。テレビの向こうではユリ・ゲラーがスプーンを曲げたが、私の手元では何事も起こらなかった。結局、超能力が認められる時代が来ることはなかったが、日本じゅうがオカルトブームで盛り上がった。当時よく話題にされた超古代史の遺跡に「日本ピラミッド」がある。パワーが得られるかもしれないから行ってみよう。
庄原市本村町に「日本ピラミッド」がある。別名いや正確には「葦嶽山(あしたけやま)」と呼ばれている。
同じ句の詩碑は各地にあるが、ここは少々特別だ。裏面に「一九九九・九・九・九・九・九・九」とあり、時空のパワーを最大限に増幅させている。
ルートの途中で石化した鷹を見つけた。「鷹岩」という。鳩に見えなくもないが、色合いは鷹そのものだ。
葦嶽山の頂上にたどり着いた。ここは標高815mで、落書きだらけの説明板がある。「S55」という落書きがあるから、ずいぶん古い。その説明板を読んでみよう。
ピラミッド頂上
ここに太陽石と周囲をとりまく磐境がありました。
拝殿と巨石群は…約150メートル
ピラミッドとはいえ、てっぺんまで錘状をしているわけではない。巨石群がある尾根続きの北側に進んでみよう。
鬼叫山(ききょうざん)に「神武岩(屏風岩)」がある。説明板を読んでみよう。
神代アヒル文字が刻まれていたというこの岩一帯は大正の初期神武天皇の財宝が埋められているという噂が流れ、大勢の人が押しかけて石柱を倒して宝を探しまわったために、今では、この一本しか立っていない。
神代文字は超古代史の定番だ。阿比留文字はハングルに似ているという。
「鏡岩」は光を反射しそうにはないが、次のように説明されている。
神武岩の上の穴と真南を結ぶ線は45度の角度でこの岩に届く。
かつては、穴に光る玉がはめこまれ、光が鏡岩に反射していたとも伝えられ、一種の光通信装置だったのではないかとも推論されている。
古代にインターネット技術が存在していたのか、キラキラ反射する光で何かを伝えようとしたのか。
「獅子岩」は確かにライオンである。説明板を読んでみよう。
ライオン岩とも言われるこの岩は、冬至のときの日没方向を向いており、専門家の調べでは、自然の摂理や亀裂とは考えられない線で刻まれているようであり風化の具合から人の手が加わった可能性があるという。
目鼻口のバランスが良く、風格さえ感じる造形だ。自然現象なら奇跡だといってよいだろう。
「方位石」は見事に四分割された岩である。これは何を意味しているのだろうか。
岩の切れ目が東西南北を示すといわれているが、現実には30度ズレており、また縦方向の切れ目が夏至線と一致することから、方位は切れ目でなく、石そのものが示していると推論する人もいる。
これを花崗岩の摂理と説明してしまえばそれまでだ。形に意味を見出すのが人間なのである。
ちなみに、この「日本ピラミッド」は1970年代のオカルトブームで初登場したわけではない。その歴史は戦前にさかのぼる。オカルティストとして知る人ぞ知る酒井勝軍は『太古日本のピラミッド』を昭和9年に発行し、次のように述べている。
右ピラミッドの所在地は、前述の如く広島県比婆郡本村であるが、即ち東経百三十三度六分、北緯三十四度五十分で、ギザのピラミッドの北緯三十度に対し僅かに四度五十分の相違であるから、三千里の遠方から見れば正東といふても差支はないのである。
偶然を偶然と解釈しないのが超古代史の特徴である。真偽をとやかく言うよりも物語を楽しむのも面白いかもしれない。
ユリ・ゲラーが登場した『木曜スペシャル』は、UFO特集もよくやっていた。チャララー、チャララララーという恐怖を煽るアレは、Buddy Morrowというトロンボーン奏者の曲「Twilight Zone」だそうだ。怖くて眠れなくなるのに、なぜか観ていた。
しかし本当に怖いのは、いまのコロナ禍に他ならない。ないものをあるかのように解釈するオカルトなら恐怖さえも楽しむことができるが、現在本当に迫り来る恐怖に、人は耐えられるのだろうか。人と人との分断は絶望をもたらす危険がある。あきらめてはいけない。「絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いのだ」カミュの名作『ペスト』が警句を発している。
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