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大企業の進出に対して、中小企業は如何に身を処すのか。平成26年に岡山駅前にイオンが出店した時、周辺の中小店舗はずいぶん身構えたに違いない。あのイトーヨーカドーでさえ閉店に追い込まれ(同29年)、人気だったジョイポリスもなくなってしまった(同30年)のである。
戦国大名宇喜多氏が進出してきた時、中小領主である国人はどのように対処したのだろうか。美作国弓削荘の国人、沼元氏の動向を追ってみよう。
岡山県久米郡久米南町山手に「大植城址」があり、町の史跡に指定されている。
眺望がよければ城の存在意義がよく分かったはずだ。代わりに地図で確認すると、県道52号勝央仁堀中線が崖下を通過している。道を挟んで北方の小丸山には小松城があり、二つの城で備前と美作を結ぶ往来に睨みを利かせていたのだろう。『久米郡誌』には次のように記載されている。
大植城址
永禄元亀天正の頃沼元与太郎久家が在城し、其家臣に河島彦右衛門、北島弥右衛門以下が居った。久家は浦上宗景の幕下であったが後に宇喜多直家に仕へた。久家は天正元年、宗景の老臣日笠次郎兵衛、坂上頼房と妙福寺を建立した。
沼元氏は弓削荘の国人で、天神山城の浦上宗景に仕えたが、宇喜多直家の台頭によりその幕下に納まったようだ。『熊山町史調査報告4』岸田裕之「小瀬木平松家のこと付〔新出沼元家文書〕の紹介と中世河川水運の視座」には、沼元与太郎が直家からもらった感状が紹介されている。
宇喜多直家書状(折紙)
今度天神山衆及行、既至二三丸雖切入、被及合戦、宗徒之者数十人被討捕、則時被切崩之段、寔各御覚悟無比類御忠節不浅候、即芸州江致註進候、先々為御悦、以使者申候、太刀一腰・馬一疋進入候、久松殿近日御下之条、致披露、褒美可被申候、猶申含口上、不能多筆候、恐々謹言、
七月十一日 宇泉 直家(花押)
沼元与太郎殿 御宿所
このたびの天神山城浦上宗景勢が二の丸三の丸まで切り込んで合戦となりましたが、敵勢数十人を討ち取って切り崩したこと、まことに比類なきご覚悟で、深い忠節を感じております。安芸の毛利氏へ使者を立てて申し上げ、喜んでいただこうと思います。また、太刀と馬を贈りますからお納めください。近いうちに浦上久松丸さまがお越しになるので、このたびの働きを披露し、褒美をいただけるよう申し上げましょう。使者にはよく言い含めておきました。あまり書けませんが、このへんで。
書状に年はないが天正二年か三年だと考えられている。浦上久松丸は宇喜多直家が浦上氏の正統として擁立していた人物である。沼元与太郎が守る城に切り込んできた浦上勢を撃退したことに、直家はとても感謝している。合戦の舞台となったのは小松城とされるが、大植城も勝利に貢献したと考えて間違いないだろう。
沼元氏はその後も宇喜多氏に仕えたが、関ヶ原後は毛利氏の家臣団に入った。忠右衛門純之という人は錦帯橋を架けた吉川広嘉の小姓となり、その縁で香川氏の養子となった。沼元与太郎に与えられた感状は、この香川氏(戸谷香川氏)に伝えられたが、のちに本家(家老職の八木香川氏)に預けられ、さらに岩国徴古館に伝えられたという。
沼元氏は中規模の浦上氏からベンチャーの宇喜多氏に乗り換え、大企業に成長させることに貢献したものの、関ヶ原ショックによる倒産で失業の憂目に遭う。もと巨大企業の毛利氏は規模を縮小して生き残ったが、沼元氏はその子会社に入り込むことに成功した。弓削荘の城と直家の感状は、沼元氏の武士としての誇りだったに違いない。
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