羅漢とは阿羅漢のことで、煩悩をすべて断滅して最高の境地に達した人、なのだという。本当にそんな人がいるのだろうか。こんな疑問を持った時点で凡人決定だが、少しでもあやかろうと羅漢像を訪ねたのでレポートする。
相生市矢野町瓜生(うりゅう)の「瓜生羅漢渓」に「瓜生羅漢石仏」がある。
千種川水系の鍛冶屋川には美しい渓谷がある。そこには羅漢の里というキャンプ場が作られ、春は桜に山菜、夏は川遊び、秋は紅葉が楽しめるそうだ。説明板には渓谷の歴史が、次のように紹介されている。
瓜生羅漢渓
鍛冶屋川の源流三濃山の東南山麓に位置する瓜生字鍛冶屋谷、古くは天慶の乱(九三九~九四一)の賊徒藤原純友の一味が隠れ住んだ矢野の岩屋、くだって建武年間、赤松氏の居城であったと言う感状山城の西搦手の間道に沿った渓谷として知られてきた。この渓谷の岩屋の奥に羅漢が祀られていることから、早くより、“瓜生の羅漢さん”と呼ばれしたしまれてきた。(中略)小岩の石段を登り巨岩のトンネルをくぐり抜けると大きく張り出した岩壁のくぼみに、釈迦三尊の石仏を中心に十六羅漢が肩を寄せ合うように安置されている。(後略)
相生市
藤原純友は天慶四年(941)に博多湾の戦いで敗れたあと、伊予で橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれたという。残党は四散しただろうから、播磨の山中にも逃げ込んだかもしれない。
ちょっとした隠れ家のようなこの地には、信仰を求める人もやってきた。さまざまなポーズをとる石仏は、誰が何のためにつくったのか。もう一つの説明板には、次のように記されている。
瓜生羅漢石仏
この石仏は、作者・製作年代は不明ですが、伝説では、朝鮮の僧恵便・恵聡一行がここに隠れ住み、後世の人々に仏縁を結ぼうとしてつくったといわれています。
また、この境内は建武年間、赤松氏の居城であった感状山城搦手の間道にあたり、この石仏は、真言宗の山伏の作で、戦国武士たちの霊をとむらうための供養仏であるともいわれ、約四百年余前の室町時代に彫刻されたと推定されます。
岩窟は幅七・七メートル、高さ約五メートル、奥行約四メートルで、その中に釈迦如来像を中心に、文殊・普賢両菩薩及び十六羅漢像が左右に並んでいます。
相生市教育委員会
恵便は高句麗、恵総は百済の僧で、どちらも日本仏教史の最初期に登場する。特に恵便は時の権力者蘇我馬子とつながりがあり、『日本書紀』に記録されている。敏達天皇十三年是歳条を読んでみよう。
是の歳、蘇我馬子宿禰、其の仏像二躯を請ひて、乃ち鞍部村主(くらつくりのすぐり)司馬達等(しばたちと)、池辺直氷田(いけべのあたひひた)を遣して、四方に使して修行者(おこなひひと)を訪覓(とひもとめ)しむ。是(こゝ)に唯(ただ)播磨国に僧還俗者(ほふしかへりのひと)、名は高麗恵便(こまのゑびん)を得つ。大臣乃ち以て師と為し、司馬達等の女島を度(いへで)せしむ。善信尼と曰ふ。年十一歳。
仏像を得た蘇我馬子は仏教を盛んにしようと、仏道の修行をした者を各地で探させ、播磨国で恵便という元僧侶を見つけた。馬子は協力者の司馬達等の娘である島を、恵便を導師として出家させた。善信尼(11)である。
南北朝期に成立した播磨の地誌『峰相記(みねあいき)』にも恵便が登場する。読んでみよう。
欽明天皇御宇、百済国より持戒為す恵弁恵総二人渡り、守屋が父ヲコシの連播磨国へ流しぬ。矢野の奥に草庵を結で住けり。三年の後召返たりけるを又守屋大和のコマへ流遣けるが、後には還俗せさせ恵弁をば右次郎、恵総をば左次郎と名付、又播磨国へ流て安田の野間に楼を造て籠置けり。
ここでは蘇我馬子の代わりにライバル物部氏が登場し、恵便が迫害されている。場所は播磨国の矢野の奥だという。まさに瓜生羅漢渓を指しているようだ。二度目の迫害も大和を経て播磨国へ押し込められている。恵便と播磨のゆかりは深い。
瓜生羅漢石仏の実際は約四百年余前の制作のようだから、『日本書紀』にも『峰相記』にも、したがって恵便にも関係ない。おそらくは、播磨と恵便、播磨と矢野の奥というキーワードから、この地の恵便伝説が生じたのであろう。
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