冬山は登るほどに気温が下がるのは知っていたが、標高301.05mの山で実感するとは思わなかった。前日にみぞれが降ったから、足元が悪いのは承知していた。空は曇り、ふもとの登城口はぬかるんでいた。ところどころに残雪を見かけたが、頂上で白銀世界を目にするなんて。
相生市矢野町森に「感状山城跡」があり、「赤松氏城跡」の一部として国の史跡に指定されている。
写真1枚目は「南曲輪群」の石垣、2枚目は主郭の「Ⅰ曲輪」である。眺望を得ることができたなら、地の利を実感することができただろうが、降り積もった雪と立ち込める靄が城跡と歴史を覆い隠し、山城は静寂に包まれている。かくも急峻な山上に築いたのは、激しい敵愾心に燃えていたからであろうか。説明板を読んでみよう。
感状山城は瓜生(うりゅう)城とも呼ばれ、鎌倉時代に、瓜生左衛門尉によって創築されたと伝えられています。
その後、南北朝・室町期になると守護赤松氏一門の居城となり、建武三年(一三三六)には、新田義貞軍の進攻に対し、赤松円心の白旗山城に呼応した赤松則祐が、この城にたてこもって防戦し、その戦功により足利尊氏から感状を与えられ、感状山城と呼ばれるようになったと伝えられています。
城郭の構成は、連郭(れんかく)式・階郭(かいかく)式の縄張で、典型的な戦国山城の地取りとなっており、山頂部を中心に総石垣造りで、建物跡と思われる礎石群が盛時のまま残されています。
相生市教育委員会
『太平記』の時代に戦場となったようだが、堅固な構えからは戦国期に宇喜多氏による大規模な改修があったと考えられている。『太平記』で感状山城の記述を確認しようと思ったが見つからない。これほどの城ながら、同時代史料には現れない謎の城だという。「感状山」の由来は興味深いが、その典拠は何か。相生市教育委員会・相生の歴史を考える会『ふるさと相生の歴史』(S54)には、次のように記されている。
感状山は、矢野町森の東方にそびえ、標高は二五〇メートルです。光明山のように郡境に立ち、街道を制圧する立場の山ではありませんが、矢野荘北方の盆地を押える恰好の山で、山容も城地経営に適しています。山頂には、今も、くずれた石垣が残っています。『播磨鑑』に
建武三年、新田義貞、白旗ノ城ヲ責ム。則祐、此ノ山ニ籠り、戦功アリ。是ヨリ、感状山ノ号有リ。
とあるので、この城の由来と名称の意味がわかるでしょう。
『播磨鑑』は18世紀の成立だから、どこまで史実を伝えているかは分からない。街道に面していないが、白旗城と連携して東西交通を遮断できる位置にあると言えよう。赤松則祐がこの城に拠ったとしても、宇喜多氏が改修して要塞化したとしても、何ら不思議ではない。
主郭に立った私は雲の中にいたのだろう。まさに五里霧中、とりあえずは退却と、感状山の尾根筋を下った。好天に恵まれたら再び登城しようかと思ったが、あの長い尾根筋を登るのも、急峻な登山道を登るのも、どうも面倒だ。攻めにくい城とは、そういうことなのだ。
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