美魔女と呼ばれる人がいる。美しい女性なら「美女」でよさそうなものだが、「魔」の字には「この歳なのに…」という驚きが込められているのだろう。賭けマージャン検事長処分問題で首相官邸と法務省の板挟みになって苦しんだ森法相も美魔女と呼ばれている。
美魔女が美しいのは天性ではなく、美を保つための並々ならぬ努力をしているという。努力する人は多いが、成果を出す人は少なく、成果を維持できる人はもっと少ない。その稀少性ゆえに世間からもてはやされるのだ。
絶世の美女として知られている小野小町は、齢を重ねてなお美魔女、とは呼ばれなかった。謡曲「卒塔婆小町」では老婆として登場する。まさに「花の色は移りにけりな」、人の世は無常であり、人の容貌もまた色褪せていくのである。人が年齢に応じた姿かたちに変容するのは自然なことだ。本日は『好色五人女』の美少女、お夏のその後に注目してレポートしよう。
備前市伊部と西片上の境、旧山陽道の葛坂(くずざか)峠に「お夏茶屋跡」がある。
お夏については以前の記事「笠がよう似た菅笠が」で清十郎との悲恋を紹介した。そこには「黒染の衣に身につつんで読経三昧に暮し、ひたすら清十郎の冥福を祈った。」とあるが、さらにその後どうしたのか。この茶屋跡にある説明板には、次のように記されている。
お夏は天性の美貌と知れ渡った評判の店は随分はやった。
清十郎を一途に想った健気さに天性の美貌を兼ね備えたお夏を一目見ようと、多くの人が店に押し掛けたのだろう。まさに週刊誌ネタの「あの人は今」である。人々の興味関心は時代を経ても変わらぬらしい。そしてやがて、お夏はこの地で亡くなったようだ。
備前市西片上に「お夏墓」と「お夏追悼碑」がある。
お夏追悼碑には人間国宝の備前焼作家、藤原啓の歌「情熱の 炎となりて 燃えつくす お夏のみたま ここに鎮まる」が刻まれている。ここで注目したいのは裏面の追悼文だ。読んでみよう。
お夏追悼
お夏は姫路但馬屋九左エの長女手代清十郎と相愛然し結婚は許されず遂に駆落て捕えられ不義と主家の金子を盗んだ科で寛文二年五月清十郎は斬罪さる時にお夏十六才悲しみの余り狂乱のちこの片上に逃れ来て茶店を営み哀れ細々と生活七十有余才で逝く
江戸時代の文豪井原西鶴、近松門左ヱ門、西沢一鳳等お夏を描く
里人われら霊やすかれと祈る
昭和五十三年十一月 備前お夏保存会
悲恋に狂乱。この文学的なテーマを文豪が見逃すはずがない。井原西鶴は御存じ浮世草子『好色五人女』所収「姿姫路清十郎物語」、近松門左衛門は人形浄瑠璃「五十年忌歌念仏」でお夏を描き、イメージの形成に多大な貢献をした。ただし、「茶店を営み哀れ細々と生活」という説明は、先の「評判の店は随分はやった」とは異なるイメージだ。はやったのは若い時分だけのことだったのか、美魔女の店としても評判だったのか。
西鶴と門左衛門は知らない人がいないくらいだが、西沢一鳳(にしざわいっぽう)は初対面である。調べてみると19世紀前半を生きた歌舞伎作者で、代表作は南総里見八犬伝を劇化した「花魁莟八総(はなのあにつぼみのやつふさ)」だという。
この一鳳がお夏を題材にどんな作品を残したのか調べたが見つからず、代わりに西沢一風(にしざわいっぷう)『乱脛三本鑓(みだれはぎさんぼんやり)』が検索結果に出てきた。一風は一鳳のひいおじいさんで、『乱脛三本鑓』は享保三年(1718)に刊行された浮世草子である。どうもこちらがお夏に関係しているらしい。
狂乱後のお夏がどうなったのかは諸説紛々としており、姫路の郷土史家橋本政次によれば、入水説、出家説、結婚説、そして茶店説があるという。このうち橋本が信憑性を認めているのは結婚説と茶店説だ。両説を郷土史話叢書『お夏清十郎』(大正6年)の「お夏の末路」から引用しよう。
第三は後に他へ縁づいたといふ説で、村翁夜話集に
おなつハ後ニ小豆島に縁ニ付参りき
とある。
第四は、茶店を開いて世を侘び住んだと云ふ説で、西沢一鳳の乱脛三本鑓(享保三年版)に
ふきりやうでも片上のお夏を見よあれこそ日本に名をなせし云々
又
片上につきたりこゝかそこかと見る内に但馬屋と云へる書付先づ休まんと床机に腰を掛れば七十ばかりの老女あるほどに腰をかゞめ旅人茶を呑れとさし出す手足くまだかの如し湯行水もいつしたやらしれず頭に油つけず櫛の歯入れねば鼠の巣にひとしそなたは姫路のお夏とやらか老女けうさめたる顔ふりあげ旅人は何をいはします夫は昔/\の名今更聞くもうらめしと少しははづる顔さうづかの姥よりつりとる俤(おもかげ)の人も世にはある時ぞかし
とある。
橋本先生も一鳳と一風を混同しているが、それよりも内容が実に衝撃的だ。描かれるお夏は美魔女とは対極の、老醜をさらす姥であった。追悼文の「哀れ細々と生活」のほうが正しいのかもしれない。
そもそも、スキャンダラスな過去を持つ美魔女の店こそ願望の産物なのであって、老いを受け入れた七十のお夏に過去を問うのは酷だろう。傷心から立ち直ったお夏は小豆島に嫁いだが、何らかの事情で対岸の片上に渡り、峠の茶店を開いて暮らしていたのではないか。橋本先生はそう推測している。「お夏」であったことを売り物にはせず、まったく別の人生を歩んでいたのだろう。
もしかするとお夏は入水したのかもしれないし尼になったのかもしれない。人々が期待するアイドルとしてのお夏は終焉を迎え、自分自身を生きるお夏が茶店にいたのだろう。哀れと言いたいなら言うがよい。オワコンでも構わない。そんなお夏の生き方は年老いてなお美しい。
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