今年はコロナ禍に加え、ナイチンゲール生誕200年に当たり、看護師さんに対するリスペクトの機運が高まっている。ナイチンゲールはイギリスの人だが、「日本のナイチンゲール」と呼ばれるのは新島八重、瓜生岩子、萩原タケである。このうち新島八重は大河『八重の桜』でよく知られている。瓜生岩子は同じく福島県は喜多方市出身の社会慈善家、萩原タケは東京あきる野市出身の看護師だ。
このようなご当地偉人は、昨年没後100年だった板垣退助にも存在する。美作の板垣退助である。その顕彰碑には元老西園寺公望まで関係するというから、地方政治家としては大物だ。その割には知られていないようなので、今回は詳しく紹介することとしよう。
津山市籾保(もみほ)に「仁木永祐(にきえいすけ)先生顕彰碑」がある。
仁木永祐は津山洋学資料館で箕作阮甫や宇田川興斎に学んだ医師として紹介されているが、どちらかと言えば自由民権運動の活動家の色彩が濃い。ここには詳細な説明板があるので理解が容易である。まずは解説文を読んでみよう。
仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡
幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓(さかやせいけい)に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭方を学んだ。
一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津(かつ)」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫あやお)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。
一八五五年(安政二)、大坂より帰郷し私塾を開くが、一八六〇年(万延元)には官許を得て郷校「籾山黌」を設立、漢学・医学などを教え、多くの門弟を育成した。
維新後の一八八○年(明治十三)、県会議員に当選し吉井川改修に奔走。一八八二年(同十五)、民権論が起こった際には、中島衛(まもる)らと「美作自由党」の結成に参画、また一八八九年(同二十二)、立石岐(ちまた)・加藤平四郎と共に上京し、国会開設を前に政党間の調停にあたり、「美作板垣」と評された。一九○二年(同三十五)九月二十四日没す。享年七十三歳。門人葬をもって郷王山に葬られた。
一九二一年(大正十)、立憲政体創立志士慰霊祭に合祀される。一九二六年(同十五)、立憲志士精霊位に合祀され、十月には、仁木永祐を慕う人たちによって籾山黌跡地に顕彰碑が建立され、除幕式が挙行された。
仁木永祐生誕一八〇年にあたり、籾保町内会、籾保老人クラブ、津山洋学資料館友の会、津山市医師会、仁木永祐後裔、市民有志の協力によって、案内解説板を設置し整備したものである。
平成二十二年十一月 仁木永祐生誕一八〇年記念事業会
美作自由党については「豪農民権家のお屋敷」でも触れている。自由民権運動こそ草莽崛起であった。志ある者が全国各地で決起していた。民生の安定と民権の伸張を期して、その能力を発揮していた。そして、民権家の舞台は国会へと移る。
この顕彰碑には「蔊渓(かんけい)仁木先生碑」と篆額が刻まれている。碑文は漢文のため難解だが、幸いなことに説明板に現代語訳がある。顕彰碑の保存はかくあるべし、と感じさせる模範的な解説板である。読んでみよう。
蔊渓仁木先生碑(蔊は、ナガミノイヌガラシという植物を指す)
正二位大勲位公爵西園寺公望篆額
岡山県の旧美作国に、むかし蔊渓という先生がいた。そのふるまいは、中国戦国時代の魯仲連のように、人のために不安を取り除き難事を処理し、紛争を解決して名利を求めなかった。豪傑の士でなくて、どうしてこんな行動ができようか。
先生は、諱は藎、字は忠叔、通称は永祐といい、蔊渓とは号である。天保元年2月に、津山藩領内の東北条郡下津川村で生まれた。豊田伊兵衛の四男で、母は小坂氏である。生家を出て、東南条郡籾山村の医師取締役である仁木隆助の跡継ぎとなる。
弘化3年、藩医の村山春庵に入門して漢方を修得し、嘉永元年には江戸に遊学して、箕作紫川(阮甫)・宇田川興斎に師事して洋学を研究し、4年後に帰郷した。先生は、数え14歳で藩儒の稲垣雪洞(武十郎)に入門したが、その年の秋に師が亡くなったため永田半眉に学び、江戸遊学時には、医術修業のかたわら昌谷精渓に師事し、帰郷後は大村桐陽(斐夫)に学び、また、大坂に遊学して後藤松陰に2年間入門した。
当時、津山に藩校はあったが、郷校は未整備だった。先生はこれを嘆き、家に開いた私塾で生徒に学問を授けること数年間、村民は初めて学問に取り組むこととなった。万延元年に、藩が学舎の設置を許可したので籾山黌を創設し、備中の儒者兼医師の林李渓(竹造)を講師として招聘し、規模も拡張して、藩も毎年蔵米を支給した。李渓が去った後は、先生父子が藩の命により講師役を引き継いだ。 先生は、毎朝生徒を引き連れて堂にのぼり、ともに白鹿洞書院掲示を一度朗読して、それから講義を始めた。子弟を導くうえで、空虚な文章は徹底的に退け、大義を明らかにして忠孝を尊び、実践を重んじ、平穏と争乱の原因を明らかにする一方、剣士を招いて剣術を授け、生徒の士気を高めた。こうして、読書の高らかな声と竹刀の打ち響く音は、朝夕に絶えることがなく、籾山黌の名声は遠方にまで聞こえた。
津山藩は先生の人となりを偉大なものと評価して、出仕を再三にわたって勧めたけれども、先生は、老親が病気で家にいることを理由に断ってこう言った。「国の恩に報いるのに、官民の違いは関係ない」と。藩主松平氏は葵紋を下賜して、代々その使用を許可した。教育における勤労を表彰したものであって、つまり、名誉ある待遇を与えられたのである。
やがて津山藩が廃止されて北条県ができ、学制も改められた。先生は初山黌を閉校し、県の命により東南条郡立学校教師となった(後に日就小学校長に任命)。明治6年のことである。それから数十日も経たぬうちに、新しい政治を快く思わぬ県民が各地で蜂起して、大声で叫びながら殺人・放火・打ちこわしを行い、全県に騒動が広がった(血税一揆)。先生は、「私の郷里でこのような騒動が発生してしまったら、教師としての職責を免れない」と言って、声をからしてなだめ諭したため、この郷里では何事もなく済んだ。
その数年後、自由民権論者が世間に広まった時には、先生も感銘を受けて、美作国内で同志と団結し、その動向に呼応した。この時すでに北条県は廃止され、岡山県に併合されていたので、岡山の西毅一らがやって来て、県下の旧3箇国を寄せ集めて、政府に国会開設を要請しようと相談を持ちかけた。先生はその斡旋に努力し、ついに元老院に意見書を提出し、また四方に呼びかけて国論を大いにあおりたてた。まさしく代議制の先駆けの役割を果たしたのである。その後まもなく、開拓使官有物払下げ事件と、井上馨・大隈重信両外相による条約改正交渉をめぐる論争が起きた。先生は常に風雨の中を奔走して同志を寄せ集め、官有物払下げについては公平でない点を批判し、条約改正についてはその不利を述べて、意見書を提出してやめさせた。先生の言葉は極めて痛切であり、紛争を解決に導いたのはこの一、二度に限ったことではない。国会開設の前後には、自由民権を唱える政党が、主張に大差はないのに分裂・乱立して激しく内輪もめする情勢となり、先生はこれを憂えて同志と上京し、すべての方面であらゆる手を尽くして調停し、心を結び付けて一つにまとめ上げたのである。
このようなことが二度あった後、山陰・山陽の鉄道連結の議論が起こると、議論に加わった者たちが、それぞれに自分の郷里に鉄道を通そうと企て、紛争して互いに譲らなかった。先生は数箇国の険しい道を行き交い、公平性を重んじて説得し、行き届かない点がなかったため、争っていた者たちは承服した。今やその鉄道の完成が間近に迫っているが、これもまた誰のおかげであろうか(津山線開業...明治31年、因美線全通...昭和7年、姫新線全通...昭和11年)。
不安を取り除き難事を処理した例は、単に教師の職責によって、一郡を騒乱から救ったことだけではない。かつて県会議員であった時、吉井川の改修を提案し、また、加茂川・福山間の農業用水路開発の計画があり、ともに重要な問題で、よく練られた計画だったが、予算がつかずに中止となった。しかし、水害を除去しないわけにはいかず、用水も開発しないわけにいかないことは言うまでもなく、その議論は絶えることがなかった。そして、北条県が岡山県に併合された時、岡山県は2,502箇所の池をすべて官有地に編入した。備前・備中の池と同一視したのであろうが、美作では、昔から民有とされていた。美作の人民が民有への復帰を何度申請しても、県が許可しなかったので、美作では、委員を選抜して内務省に直訴し、詳細に状況を述べた。内務省は県に命じて改めさせたのだが、県の役人は、なおもあいまいな態度を取り続け、足かけ14年後にようやく改めた。委員たちの苦労はいかばかりであったろうか。先生は、その委員の一人だったのである。これも忘れてはならぬことである。
国会が開設されると、郷里の同志たちは、何度も議員候補として先生を推薦しようとしたが、先生は、「私は年老いてしまった」と言って辞退した。津山藩からの出仕の勧めを断った時のように。これこそ、いわゆる「名利を求めない者」ではないだろうか。先生は、終生全く名利を求めなかった。
明治35年9月24日に病没、享年73歳。門人たちは、旧籾山黌に程近い郷王山の仁木家先祖代々の墓所に先生を葬った。先妻は養父隆助の長女であったが、先に亡くなった。後妻もまた同じ仁木家の女性で、名は佳津と言い、三男二女(実は三男三女)を産む。このうち、長男の清(清次郎、実は次男)が家を継いだ。
先生の人となりは、親に孝行を尽くしてよく従う温厚な性格であるが、大事に当たる時には果敢に取り組み、周りの評判を気にしなかった。すぐれた性質が生まれ出る心の底では、熱い情熱が沸き立っていたのであろう。けれども、学問上の篤い信念があるため、思いめぐらせばそのとおりになり、周旋すれば何事も解決した。先生の遺した業績が後世まで伝わり、恩恵は郷土に流れ広まり、郷土の人々に忘れられない存在となったのが、この碑を建てる理由である。近ごろ私に文章の依頼が来たため、経歴の概要を述べあらわし、次のように銘を記す。
ああ、先生はまことの儒者、そしてすぐれた名医。名誉や利益には雲か煙のように執着せず、懸命に努力して大きな業績を遺した。
草木が生い茂る郷王山に建つ一片の石碑。松が陰をつくり、柏が守り茂っている様子は、人に永く先生のことを偲ばせる。
大正15年4月
早稲田大学教授 西弌 撰
東京 清水文造 書
まず篆額が西園寺公望であることに注目だ。我が国の良識を体現するかのような西園寺公だから、その揮毫は全国から求められ現代に伝わっている。かと言ってどこにでもあるわけでなく、仁木先生顕彰碑は県内では貴重な例である。おそらく自由党以来の人脈が建碑に関係しているのだろう。
碑文では仁木先生が中国戦国時代の魯仲連(ろちゅうれん)になぞらえられている。仲連は斉の雄弁家で高節を守って誰にも仕えなかったという。仁木先生は衆議院議員にふさわしい人物だったが、出馬することはなかった。常に野にある姿勢が仲連に似ていたのだろう。
民権家としては、明治12年12月29日の日付のある「岡山県両備作三国有志人民国会開設建言書」の提出、藩閥政府の私利私欲が露見した明治14年の開拓使官有物払下げ事件に対する批判、そして明治21年に外相に就任した大隈重信が提起した外国人司法官任用案に対する批判に関わったようだ。
政治家は担当したポストで呼ばれることが多い。アベ政権に物申すことのできる自民党の良識派、村上誠一郎衆院議員は「元行革相」とずいぶん前の肩書をつけて報道される。何もない一議員よりも重みが感じられる。仁木先生は議員にすらならなかったので、医師、教育者、民権家と呼ばれるだけだ。
碑文の銘にあるように「真儒上医」先生はまことの儒者、そしてすぐれた名医であり、「雲烟名利」名誉や利益には雲か煙のように執着しなかった。ほんとうに尊敬に値するのは、このような人なのだ。今年は先生の生誕から190年に当たる。美作の板垣、いや日本の魯仲連、いや津山の仁木永祐を今こそ顕彰すべきであろう。
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