「浮いている」のは日々実感しているが、そういう話ではない。新宮市にある「浮島の森」を歩いたのはずいぶん前のことだが、その時の感触は今も忘れていない。浮いているというフワフワ感が靴底から伝わってきた。
「夢の浮橋」は『源氏物語』の最終帖で、そのゆかりの地を訪れたことがある。宇治川の流れに、歴史ある宇治橋、そのたもとには紫式部像。これはこれで夢のような光景だ。本日は浮島橋を渡って浮島に渡った話をしよう。
岡山県苫田郡鏡野町久田下原(くたしものはら)に「城峪城跡(しろさこじょうあと)」がある。
このたびの球磨川氾濫でダムの存否が議論になっている。川辺川ダムがあれば水害は防げたのではないかと。ここ苫田郡では大反対運動が展開されながら、今では「苫田ダム」、そして奥津湖というダム湖ができている。
城峪城跡はもともと吉井川左岸の独立丘陵にあったのだが、ダム建設により周囲が水没したため、今では「浮島」と呼ばれている。地盤は固くフワフワしていない。浮遊感があるのはむしろ「浮島橋」のほうで、これぞ夢の浮橋かと思わせるような珍しい橋だ。橋を支えるケーブルが橋桁の中に通されているそうだ。
ダム工事に伴って丁寧に発掘調査が行われている。その成果を記した説明板が設置されているので、読んでみよう。
この浮島は、元々は吉井川左岸に位置する独立丘陵で、この地形を利用して南北朝時代頃(十四世紀代)に山城が築かれていました。
元禄四年(一六九一)刊の『作陽誌』にも記録されており、ここでは「故塁こるい」(古いとりで)、「何人(なんぴと)の住むやを知らず」と解説されており、江戸時代には城跡であるという認識はあったものの、名前や由緒についてはわかっていません。そのため、ここの地名をとって城峪城と名付けました。
城峪城は苫田ダム建設に伴い、平成八・九年に城跡全体の発掘調査が実施されました。その結果、丘陵の最高部にあたる広い平坦面に、中心的な曲輪を配置し、この曲輪を囲むように、小規模な曲輪や、防御と城兵の通路を兼ねた「土塁」や「切岸」「竪堀」「堀切」などの人工的な設備があり、土塁や切岸からは多数のつぶて石も見つかりました。
出土遺物は多くはありませんでしたが、皿や坏(つき)、すり鉢、水がめ、刀子(とうす)などの日用雑器や、青磁・白磁の破片、硯や槍などの柄に装着する石突(いしづき)という鉄製品など、生活用品から支配者層の所有物、文具・武具などが見つかっています。また、釘も多く出土しており、簡易な建物があったことがうかがわれます。
城峪城は、防御施設の配置からみて、南の吉井川下流域からの侵攻に備えてつくられたと思われます。この城の北側には、武士の居館跡(久田堀ノ内遺跡)も見つかっており、城峪城は、この地域をおさめる土豪が、南部から侵攻する敵の久田平野への侵入を防ぐために造られたとりでではなかったかと推測されます。
また、この城跡の下層からは七世紀代頃の製鉄炉や炭窯の跡も見つかっています。
鏡野町
この地方の古い地誌『作陽誌』に記録されているという。『作陽誌』西作誌上巻苫西郡山川部富庄「下原堡」の項の記述を確認しよう。
在同村或名比丘尼城山北有弥谷水流出西入渠溝山南二丁余亦有故塁共不知何人住焉
下原堡は城峪城跡の北側に位置する比丘尼ヶ城跡のことで、やはり14世紀後半~15世紀前半の古い城跡だそうだ。その南側にある「故塁」が城峪城跡ということになる。誰が居城していたのか分からないとのことだが、両城から少し上流部の平野に「久田堀ノ内遺跡」があった。今はダム湖に沈んでいるこの居館跡の主が、城を管理していたに違いない。
近頃完成した「岡山県中世城館跡総合調査報告書」によれば、文明十三年(1481)に赤松氏家臣の大河原氏が山名氏一族の者を作州久田庄に匿ったとある。居館跡に招き入れたのだろう。しかし城跡はこれより百年前の時代だから、やはり「何人の住むやを知らず」ということになるのかもしれない。
当時は知らない者はいないくらいの有力者だったのかもしれないが、江戸時代には忘れ去られてしまっている。今や手がかりも何もなく、城主の謎は宙に浮いたままだ。中世城館跡にはそうしたものがかなり多い。まさに、つわものどもが夢のあと、なのである。
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