うちのあたりでは農作業で籾摺りのことを「とうす」というのだが、これは「とううす」すなわち「唐臼」から来ているのではないか。臼の実物を使ったことがないので自信をもって説明できないが、臼にはすり臼とつき臼の二系統があり、すり臼は唐臼(とううす)、つき臼は唐臼(からうす)と呼ばれていたようだ。いずれにしろ中国伝来の技術革新が、我が国の生産性向上に貢献しているのだろう。
岡山県久米郡美咲町打穴西(うたのにし)に「唐臼(からうす)墳墓群」がある。県指定史跡である。
「唐臼」の名称は、臼のように見える二つの石に由来しているようだ。しかしこれは臼ではなく、墓である。詳しいことを説明板で読んでみよう。
この墳墓群は、昭和四〇年に発掘されたもので、最も高い位置に奈良時代の火葬墓、その下方に横穴式石室をもつ三基の後期古墳がある。火葬墓には下段六メートル、上段五メートルの石列をもった方形二段築成の盛土が認められ、上段中央部には蔵骨器を納める穴をもった花崗岩製の外容器がおかれている。
三基の古墳のうち一号墳から出土した亀甲型陶棺には、横部外面に、白色の塗料で直径約二〇センチの円い紋様が描かれている。
当墳墓群は、古墳時代から奈良時代に至る、我国の葬制、墓制を知るうえで、貴重な遺構である。
石の穴には蔵骨器が納められていたという。つまり二つの石は、手前が身で向こうが蓋となる外容器だったのだ。我が国最初の火葬は、文武天皇四年(700)に亡くなった法相宗の僧道昭であった。以降急速に普及し、吉備高原のど真ん中でも火葬墓が造られたということだろう。
火葬墓の下方に三基の古墳があり、これは一号墳である。火葬墓の主の親世代までは、このような横穴式石室のある墓が造られていたのだろう。一号墳からはこの地域に特徴的な陶棺が出土している。地方色ある墓制は、火葬の普及によって全国標準化していった。そんな変遷をこの墳墓群は物語っているのかもしれない。
1300年前の墓は、盛り土のある塚だ。これが現在のような直方体の墓石になるまでには、ずいぶんの年月を経ている。これから先も墓のデザインは変化していくだろう。唐臼火葬墓のようなカプセル型もおしゃれに見えるがどうだろうか。
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