「落ちない城」として受験生に人気なのは、播州白旗城、信州上田城である。白旗城は新田義貞率いる6万の軍勢を赤松円心がわずか2千の兵で50日余り防ぎ止めた。上田城は徳川の大軍勢を2度にわたって真田氏が退けた。どちらも難攻不落の名城である。
本日は岡山県の県境近く、山深い美作にある落ちない城を紹介しよう。
津山市加茂町山下に「矢筈城跡(高山城跡)」がある。県の史跡に指定されている。
この城は築城以来一度も落城することがなかったというが、そりゃそうだろうと思う。ここまで登るのにどれほどの時間と体力を要したか。攻める気が失せる城だろう。標高はどれくらいなのか、説明板を読んでみよう。
ここは、標高七五六メートルの矢筈山の山頂にある矢筈城(高山城)の本丸跡です。
津山藩士の正木輝雄は、その著書『東作誌』の中で、本丸について「東西十五間、南北六間、矢筈山の嶺に在り、古(いにしえ)は四方へ掛作り有りと云う」と記しています。
ここに建っていた建造物は、山頂の部分から周囲がはみ出して、四方へ掛作りをしなければならないような大規模なものであったと伝えられています。
本丸のあった場所は「大筈(おおはず)」、そのすぐ東側にある谷をはさんで向かいあう一段低い場所が「小筈(こはず)」と呼ばれています。
山麓から眺めると、頂上がV字型にくぼみ、矢の末端の弓の弦にかける部分の形に似ているところから「矢筈城」と呼ばれています。
平成二十年三月 津山市教育委員会
頂上には四等三角点「矢筈山」がある。本丸の「大筈」はそれほど広い場所ではない。建物は京都の清水寺のような懸造(かけづくり)だったという。大筈と小筈の間にはV字の谷があることは山容の由来となっている。灌木につかまりながら谷に下りてみよう。
落ちない城、VictoryのVである。さらに小筈に登ってみよう。
小筈から大筈を眺めている。こちら側からの攻撃はとてもできそうにない。「落ちない城」矢筈城では、どのような争いがあったのか。この城は草苅氏三代、衡継、景継、重継の居城であった。天正十年(1582)、毛利と織田の間で激しい争奪戦が行われていた美作地方は、一大転機を迎えた。
秀吉の高松城水攻めにより毛利と織田に和議が成立し、両者の境界が確定したのである。毛利方として守備を固めていた草苅氏は、矢筈城を明け渡さねばならなくなった。ところが三代目の重継は織田方にあくまでも抵抗し、天正十二年(1584)になってようやく退城したのであった。落城することはなかった。
美作河井駅側の登城口にある「若宮神社」は、その折の悲劇を今に伝えている。説明板を読んでみよう。
若宮神社
天正の頃(一五八十年代)のことである。矢筈城主達が退城したとき、その若君が、この地で非業な死を遂げて成佛せず、村人が附近を通ると、哀れな幼児の泣き声が聞こえていたので、祠を建て、その霊を慰めた。
何時の頃からか、幼児の夜泣きを治めるのに、霊験顕たかと云われ、若宮様として、今も信仰されている。
平成九年一月之再建 加茂町観光協会 矢筈城址保存会
夜泣きに効くという。そうならもっと早くにお参りしておけばよかった。あの頃はずいぶん苦労したものだ。落城しなかったとはいえ、決して平和裡の退城ではなかったのだろう。実は重継の先代、景継も非業の最期を遂げている。
津山市加茂町山下に「矢筈城跡(高山城跡)附伝草苅景継墓所」がある。城跡とともに県の史跡である。
墓石に刻まれた文字は鮮明で保存状態が良い。大切に守り伝えられてきたのだろう。説明板を読んでみよう。
矢筈城(高山城)の本丸を真正面にのぞむ、津山市加茂町山下の葵谷にある矢筈城第二代城主の草苅景継の墓所です。
現在の墓碑は、江戸時代の寛政年間(一七八九~一八〇一)に山下の小原氏一族によって建立されたもので、それまでは現在の墓碑の背後にある自然石が墓碑として用いられていました。
寛政年間に建てられた現在の墓碑には、理相院殿前矢筈城主天心智觀大居士という景継の法名と天正三年四月二十七日の日付、そして草刈三郎左衛門尉藤原景継の俗名が刻まれています。
この墓碑銘は、河井の福善寺の住職であった紋龍上人の筆に成り、これを和泉国(現在の大阪府南部)の住人であった長久という者が刻んだと伝えられています。
天正十二年(一五八四)に、第三代城主の草苅重継が矢筈城を退城した後も、この草苅景継墓所は、小原氏をはじめとする地元の人々によって、現在に至るまで大切に守り伝えられています。
津山市教育委員会
ここには記されていないが、草苅景継は生き残りをかけて大きな賭けをしていた。毛利方から織田方への内通である。その証拠となる書状が津山郷土博物館に所蔵されている。「羽柴秀吉書状」(牧山家文書)
雖未申通候令啓候
仍於西国可相働候條
其節御忠義専用候
従御返事申上
御朱印相調可
進之候委細草苅
三郎左衛門方より可被
申候恐々謹言
羽柴筑前守
二月廿八日秀吉(花押)
西子十兵衛尉殿
御宿所
博物館の解説によれば、「織田方へ忠誠を尽くすなら、朱印状(領地の安堵状のことか)を出す準備があります。詳しくは草苅三郎左衛門より申します。」という内容で、草苅景継がすでに織田方に内通していることが分かる。当時は備中の三村氏が毛利方から離反し、尼子再興軍も頑張っていた。
織田方についた景継の選択は後世から見れば正解だったが、この時には時期尚早だったようだ。内通は毛利方の知るところとなり、その責めを負って景継は切腹させられてしまうのである。あとを継いだ弟の重継は、兄の過ちを繰り返すまいと誓ったのか、最後の最後まで毛利方から離れることはなかった。子孫は長州藩士として続いたという。
正直言って、人生は何が正解か分からない。織田方に内通した景継が宇喜多氏の家臣団に組み込まれたとしたら、江戸時代には武士として存続できなかったかもしれない。その時その時でその人その人が最善の選択をした結果、歴史が残るのである。矢筈城に登って連郭式の大規模な縄張りを探索すれば、草苅氏の本気度を感じずにはいられない。
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