よく通っていた道沿いに、更地を突然発見することがある。あれ、何があったっけ。見ているはずなのに思い出せない。現代人でさえこうなのだから、古代の建造物に謎が多いのも当然だろう。本日紹介する寺院跡は地域随一の規模を誇るが、現役時代の名称は長らく謎だった。
鳥取県東伯郡琴浦町大字槻下(つきのした)字上斉尾に国指定特別史跡の「斎尾(さいのお)廃寺跡」がある。
この広い風景に古代寺院の姿を脳内で合成してみよう。左の基壇には金堂、右には塔が建てられていた。三重塔と推測されている。金堂の向こうには中門があり、金堂のうしろには講堂があった。地域のランドマークとして人々を圧倒し、仏教普及の拠点として栄えたことだろう。説明板を読んでみよう。
白鳳時代(七世紀後半~八世紀初頭)の古寺跡で金堂・塔・講堂の跡が比較的明瞭に残り、金堂・塔跡の基壇と礎石及び講堂跡の礎石が多数残っています。伽藍配置は南面して東に金堂、西に塔を置く法隆寺式になっています。
豊富な出土遺物の中には貴重なものが数多くあります。遺瓦類では軒平瓦は忍冬唐草文また、創建時の軒丸瓦は、外縁に雷文を飾る八葉複弁蓮華文で、それぞれ奈良県の法隆寺、紀寺廃寺のものと同系統であることが注目されます。仏像は塑像の仏頭・顔面・手足・螺髪などをはじめ、多くの破片が出土し、貴重な仏片も出土しています。
このように遺構や出土遺物について文化的価値の高いことが認められ、山陰で唯一の特別史跡に指定されている貴重な遺跡です。
大和の大寺院とつながる有力寺院だったことがわかる。全国の中でも白鳳期の遺跡が多いのは、奈良県、大阪府、滋賀県、そして鳥取県だそうだ。その理由として、朝鮮半島に向き合うという位置関係が挙げられている。百済滅亡が660年、半島から渡来する人々が多かったのかもしれない。
ここ伯耆国にも寺院建立の主体となった豪族がいただろう。『日本書紀』天武紀(12年10月5日条)によれば、683年に有力氏族多数に連姓が与えられたが、その中に「伯耆造(ははきのみやつこ)」も含まれている。斎尾廃寺と関係があるのだろうか。
平成30年、斎尾廃寺跡で新発見があった。「八寺」と墨書された土器が見つかったのである。この地はかつて「八橋郡」であったことから、寺院名は「八橋寺」だった可能性があるというのだ。隣の久米郡域からは「久米寺」の墨書土器が出土している。郡ごとに拠点寺院が建立されており、国分寺の先駆けのようにも見える。
仏教の普及に関して、天武天皇は685年に次のように命じている。(天武14年3月27日条)
諸国の家ごとに仏舎を作りて、乃ち仏像及び経を置き礼拝供養せよ。
これが今の仏壇の起源だといわれているが、この「家」は民家ではなく「郡家」のことではなかったか。八橋寺も久米寺も、詔によって造られた公的性格の濃い寺院だったのだろう。信仰は心のありようであって形而上的なものだが、信仰には形ある拠り所が欠かせない。目を見張る建造物があった斎尾廃寺こと「八橋寺」。この初期寺院が仏教普及に果たした役割は、私たちの想像以上に大きかったに違いない。
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