古墳には墳形、大きさ、石室、副葬品など、さまざまな魅力があるが、石棺もその一つだろう。遺骸を納める棺桶にふさわしい形に加工が必要なので、比較的柔らかい石材が求められた。幸いなことに火山国日本には凝灰岩が各地で産出する。吉備地方では播磨の竜山石の石棺が多い。本日は吉備の有力な古墳を紹介するのだが、注目はその石材である。
倉敷市庄新町に「王墓山(おうぼさん)古墳」がある。県指定史跡である。
大きさよりも内装重視の後期古墳である。立派だったであろう石室はすでに失われているが、迫力のある石棺が残されている。どのような特色があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
古墳時代後期(六世紀後半頃)につくられた古墳である。かつての開墾や宅地造成などにより墳丘はかなり変形を受けているが、もともとは二五m程度の規模をもつ円墳ないしは方墳と考えられる。
内部主体には横穴式石室を有していたが、石室は明治末頃に石材として切り出されたといわれ、今は見ることができない。墳丘南東側に安置されている石棺は、この時に多量の副葬品とともに石室内から持ち出されたものである。
石棺は七枚の石を組み合わせた家形石棺で、石材には井原市浪形(なみがた)に産する貝殻石灰岩を用いている。同種の石棺を有する古墳は、総社市こうもり塚古墳など数例しか知られておらず、しかも有力な古墳に限られている。
出土遺物には、四仏四獣鏡をはじめ金銅装馬具・鉄製武具・装身具類・須恵器など多種多量の副葬品が知られており、それらは現在東京国立博物館に収蔵されている。
これらの豊富な副葬品や家形石棺の存在などから、王墓山古墳は、この地方においてかなり傑出した存在であったことがうかがえる。
倉敷市教育委員会
まずは家形石棺。この美しい造形は石棺の到達点といってよいだろう。ただし、ここで注目したいのは、その石材である。井原市浪形に産する貝殻石灰岩を「浪形岩(浪形石)」という。よくある石材の凝灰岩が火山噴出物に由来するのに対して、浪形岩は貝殻つまり生物に由来しているのだ。
浪形岩は今、県の天然記念物に指定されている。この貴重な石材を使用した石棺は、こうもり塚古墳(総社市)、江崎古墳(総社市)、金子石塔塚古墳(総社市)、牟佐大塚古墳(岡山市)、そして王墓山古墳(倉敷市)に残っている。このうち、こうもり塚は「美女とこうもり」で、牟佐大塚は「桜でも古墳でも権力を誇示」で紹介した。この2基は国指定史跡、江崎と王墓山は県指定史跡である。
有力古墳ばかりに使用されている浪形岩は、何らかのステータスを示しているのか。有力者の間にネットワークがあったのか。ここ王墓山地区周辺が権力や権威の維持において重要な場であったことは確かだろう。全国最大級の楯築墳丘墓に近いだけでなく、王墓山地区には4つの古墳群(赤井西、大池上、真宮、東谷)がある。古墳群の中から1基だけ紹介しよう。
王墓山古墳から歩いてすぐの場所に「大池上古墳群9号墳」がある。
王墓山古墳が含まれる赤井西古墳群に隣接して大池上古墳群があり、一帯は王墓の丘史跡公園として整備されている。大池上9号墳は巨大な石棺に見えるが、これが石室である。説明板を読んでみよう。
尾根上に築かれた古墳で、南西方向に開口する横穴式石室を有している。石室は現存で全長約五・五m、幅約一・七mを測るが、墳丘と天井石はすでに失われている。
未調査であるため明らかではないが、おおむね六世紀後半頃に築造された径一五m程度の円墳と思われる。
倉敷市教育委員会
6世紀後半頃ならば王墓山古墳と同時期だ。両者は古墳群としての所属を異にするとはいえ、無関係ということはないだろう。4つの古墳群というよりも王墓山古墳群としてまとめてもよいくらいだ。
遺跡が点在し木陰も多く、古代に思いを馳せながら散策するのにふさわしい公園は、冷静に考えると死体が埋葬された墓地なのだが、誰も不気味だとは思わず心地よく歩いている。
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