「人が右と云えば左、左と云えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、――そりゃ強情ですよ」「天探女(あまのじゃく)でしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。」名作『吾輩は猫である』に登場するアマノジャク、ふつうは天邪鬼と書く。
その語源とも言われる天探女(アマノサグメ)は、記紀に登場する女神である。地上の平定に向かったアメノワカヒコが8年経っても戻って来ないのを訝った高天原の神々は、雉を遣わして戻らない理由を問い質した。その雉の声を聞いたアメノサグメは「此の鳥は鳴く音(こゑ)甚(い)と悪し。故射殺したまひね。」とアメノワカヒコを唆した。
思慮の浅いアメノワカヒコが放った矢は、雉を射抜いて高天原にまで届いた。矢を拾ったタカミムスビは「或(も)し天若日子、命(みこと)を誤(たが)へず、悪神(あらぶるかみ)を射たりし矢の至(き)つるならば、天若日子に中(あた)らざれ。或(も)し邪心(きたなきこころ)し有らば、天若日子、この矢にまがれ」と言挙げし、矢の飛んできた穴から投げ返すと、アメノワカヒコは矢に当たって死んだ。
復命の不履行によってアメノワカヒコは処刑された。その悪事、とりわけ糾問使殺害というトリガーを引かせたのがアメノサグメであった。天邪鬼はワルだがどこか憎めない野郎と思っていたが、その原像はとんでもない奴だった。今回は天邪鬼の夢の跡を訪ねる登山である。
兵庫県多可郡多可町八千代区大屋に「勝負滝」がある。この日、私は中の谷川に沿って笠形山を目指した。登山ルートはいくつかあるが、これは大屋コースまたは龍ヶ瀧コースという。登る私と反対に流れるこの川は、野間川を経て加古川に注ぐ。説明板を読んでみよう。
勝負瀧
落差は約8メートル。二つの谷が合流したところにあり、流れる水が二つに分かれて滝になっていることから勝負瀧と名付けられました。
滝の背後は水平の層構造が美しい。これは砂岩・泥岩などの堆積岩で、カルデラ湖の湖成堆積物だという。白亜紀後期の火山活動については後で述べよう。少し歩くと、さらに見事な滝に出逢うことができる。
「龍ヶ滝」である。
黒い岩肌と流れる水の白さが印象的だ。説明板があるから読んでみると、ずいぶん古風な感じだった。
龍が瀧
笠形嵐に交り、とう/\と響く瀧音、美しい典型的な瀧である。両側の樹影を映じて美しい景観を呈している。
瀧の上の岩盤に馬の蹄跡が澤山と重箱のおいた跡がある。
これは昔坂上田村磨が馬に乗って笠形山を下られ、この龍の上で休まれ、馬を繋いで、重箱を開いて食事をせられた跡が今にそのまゝ残ったとの傳説がある。
なんと坂上田村麻呂がやって来たという。田村将軍については以前の記事「金の甲の埋まる山」で紹介した。その舞台は金甲山と由加山だったが、今回は笠形山だ。将軍は山がお好きらしい。本当にこの地を訪れたのだろうか。
道に沿って滝の上へ行くと「馬の足跡」がある。将軍の馬が残した足跡、将軍来訪の物証である。林道を越えてさらに沢沿いに進もう。
源流と呼ぶにふさわしい場所に「天邪鬼(あまんじゃく)の力水」がある。
山中で水を確保できる場所は貴重だ。山上の天邪鬼はここまで水汲みに下りて来たのだろう。私のほうは、これまで沢伝いで歩きやすかったが、今度はいよいよ急坂。尾根に出るまでの辛抱だ。
尾根に出てしばらく進むと「龍の背」がある。
ホンモノの龍を見たことはないが、本当に龍の背そっくりである。説明板を読んでみよう。
笠形山から千ヶ峰(せんがみね)へと続く縦走路にあり、尾根道に岩が並んでいるようすから「龍の背」と呼ばれています。
笠形山の特徴的な岩石は溶結凝灰岩であり、高温の火山灰が溶結してできた岩石である。白亜紀後期の大規模な火山活動によって生成した。柱状節理、板状節理が見られるのが特徴だ。いよいよ天邪鬼の活動場所に近付いてきた。
「天邪鬼の挽岩(ひきいわ)」がある。
見事な柱だ。
こちらは板の散乱状況である。とても自然現象とは思えない。だとすれば、いったい何者が何のために何をしようとしたのか。説明板には次のように記されている。
天邪鬼の挽岩
大昔、笠形山にアマンヂャクがいた。
笠形山から中町の妙見山に、橋を架けるため橋脚を立て橋板にすべく岩を板状に切り、いよいよ架橋にとりかかる段取りとなったとき東の空が明けかけた。
アマンヂャクは、夜だけの生物で、太陽が昇ると駄目になるので残念ながらこの大架橋工事は橋脚を立て、橋板を切って準備OKというところで夜が明けてしまったというのである。
なるほど、アマンジャクが橋を架けようとしたのだと分かった。しかし、いったい何のために。写真で確認しよう。
挽岩と妙見山を線で結んだ。距離にして約7.8km。明石海峡大橋も真っ青の壮大な橋であった。いったい何のために。普通の人は「無駄だからやめとけ」と忠告するだろう。その忠告に耳を傾けるどころか、工事を始め、そして途中で投げ出すという無謀さ。まさに天邪鬼。
笠形山の頂上に一等三角点「笠形山」がある。939m。ふだん生活している場所から900m以上も天に近付いている。こんな高いところにいれば、自分の力で何でもできそうな気になるのだろう。人に悪事を唆すなどというつまらぬことを考えるわけがない。逆に上手いこと騙されて無駄骨を折ったのかもしれない。天探女(アマノサグメ)=天邪鬼(アマノジャク)は、成り立たないような気がしてならない。