天下人を倒した明智光秀でさえ生誕地が謎なのだ。恵那市明智町とも可児市広見・瀬田とも言われているが、岐阜県ではなく滋賀県多賀町佐目だとも、はたまた福井県小浜市だという文献もあるという。
いわんや宮本武蔵においておや。一剣豪の生まれた場所など分かるわけがない。それでも現在三か所に生誕地を示す石碑が建てられている。このブログで最初に紹介したのが兵庫県揖保郡太子町宮本の「宮本武蔵生誕之地」である。次に紹介したのが高砂市米田町米田の「宮本武蔵・伊織生誕之地」である。どちらも播磨説だったが、本日は遂に、人口に膾炙する美作説に迫ることとしよう。
美作市宮本に「宮本武蔵生誕地」と刻まれた古い石碑が建っている。「侯爵 細川護成書」とあるから肥後細川家当主が認めた生誕地ということになろう。
武蔵の生家は石碑の向こうに見えているが瓦屋根で新しく見える。説明板によれば「昭和十七年火災にて焼失せるにより現在の家となるも大黒柱の位置は昔と変わらず」ということだ。石碑の裏面には二松學舍を創立した三島中洲が得意の漢文で次のように記している。
宮本武蔵宅址碑
宮本武蔵剣道之名噪于天下後世馬丁走卒亦皆識之而罕知其郷貫宅阯者阯在美作国英田郡讚甘邨宮本里天正之初武蔵生于此諱政名武蔵其称赤松氏支族父曰新免無二斎善武術武蔵継述研精更有所自得周遊天下与諸勇士決闘六十余次皆制勝其名大揚肥後国主細川忠利聘為賓著書範後人正保二年五月十九日歿葬同国飽託郡弓削里頃郷紳欲建碑表宅阯請余銘鳴呼今日 皇武震盪宇内者得非武蔵等鼓吹武道之効哉表章允当矣銘曰
嗟武士道 我邦独専 鼓舞作興 永仰先賢
明治四十四年五月
東宮侍講正四位勲二等文学博士 三島毅撰
津山牧馬書
剣術において宮本武蔵の名は天下に鳴り響き、後世の馬丁走卒をはじめ誰でも知っているが、故郷の生家跡を知る者はまれである。その跡は美作国英田郡讃甘村宮本にあり、天正の初めに武蔵はここに生まれ諱を政名といった。武蔵は赤松氏の支族と称し、父は武術をよくした新免無二斎という。武蔵はこれを継いでさらに研鑽を積み、天下を渡り歩いて勇士と六十余回決闘し、すべて勝った。その名は大いにあがり、肥後国主の細川忠利に賓客として招かれ、書物を著して後の人に範を示した。正保二年五月十九日に没し、同国飽託郡弓削に葬られた。近頃、生家跡を示す碑を地元の名士が建てようと私に銘を依頼してきた。ああ今日我が国の武威が世界で大いに振るっているのも、武蔵らが武道の素晴らしさをさかんに訴え、的確に伝えたからではないか。銘して曰く
ああ武士道は、我が国でもっぱら推奨され盛んになっている。この偉大な先人を長く敬っていこうではないか。
明治44年は前年の韓国併合に続いて、この年に関税自主権を回復するという大日本帝国の成長期であった。その原動力が武士道だと中洲は指摘する。我が国の今日あるは武士道の先哲のおかげ。武蔵を顕彰しようではないか。そう訴える石碑もまた、時代の産物であった。
ただし、生誕地と主張するからには根拠が必要だ。細川家当主が認めるということは何かあるに違いない。石碑の左には「剣聖宮本武蔵畧伝」という銅板がある。伝記に続いて、最後に次のように記されていた。
武蔵は終生娶らず実子は無かったが姉おぎん、叔父武助の子孫が生誕地に現住している。明治の末、熊本の「宮本武蔵遺蹟顕彰会」の人々が来村、平田家の遺物等を調査して、生誕地は、ここであることを確認したので、町内の有志が資金を募り、明治四十四年この地に碑を建てたのである。
熊本の人々の事前調査があったのだ。そして昭和になって吉川英治が小説に書き、平成になってNHKが大河ドラマ化し、この生家跡は空前の観光ブームに包まれる。近くの武蔵神社には、武蔵と両親の墓がある。もちろんブームに乗じて建てられたものではなく、生誕地碑よりも歴史は古い。
神社の右手に「宮本武蔵の墓」「武蔵両親の墓」がある。
向かって右側が「武蔵両親の墓」である。墓碑から分かることを整理すると、次のようになる。
父 平田無二(無二斎) 真源院一如道仁居士 天正八年四月二十四日 行年六十三
母 お政 光徳院覚月樹心大姉 天正十二年三月四日 行年四十八
向かって左側の宮本武蔵の墓は、明治31年に建立されている。正面には「賢正院玄信二天居士 宮本政名武蔵之碑」と刻まれ、側面の墓碑銘には「武蔵者菅原姓平田氏也」とある。
養子の宮本伊織が建てた有名な小倉碑文には「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」とあるから、赤松氏であれば村上源氏で源姓である。また新免氏であれば「徳大寺家と宮本武蔵」で記したように藤原姓となる。武蔵は「新免武蔵守藤原玄信」とも名乗っている。この矛盾を解決するのが『姓氏家系大辞典』(国民社)第3巻「新免」の次の系譜である。
赤松則村―貞範―顕則―満貞―家貞―貞重(後に新免伊賀守と改む。文明十八年に、家貞の養子と為る。実は新免長重の嫡男)
そして武蔵が養子として新免氏を継いだのだから、要は、武蔵の実家はどこかという問題である。播州米田村説では田原氏、美作宮本村説では平田氏ということになる。播州宮本村説ではよく分からない。説明に不明な点や矛盾があると、それを何とかつなげようとする。その際、史料の確からしさを考慮せずに、都合の良い部分をつまみ食いするから多くの説が生じるのだ。
邪馬台国論争なら我が国の国家成立に関わる問題だが、武蔵出生地論争が天下国家を左右することはない。ただローカルツーリズムの要素としては重要だ。おそらく美作宮本村説は史料の質の点から武蔵出生地として妥当でないだろう。しかし武蔵顕彰の歴史においては、もっとも権威ある場所である。何と言っても細川侯爵のお墨付きがあるのだから。
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