歴史には謎があって、様々な説が飛び交うから面白いのである。宮本武蔵の生誕地については、作州説と播磨国米田村説との論争に隠れた感のある、播磨国宮本村説を実は有力ではないかと以前に紹介している。穏やかな場所で雰囲気が良い。
「山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。」吉川英治がそう認めた作州説は、歴史をロマンと捉えるならば最適な場所と言える。一方の播磨国米田村説は、住宅地の中にあってそれらしくはないが、アピール度では引けを取らない。
高砂市米田町米田に「宮本武蔵・伊織生誕之地」という巨大な石碑がある。
100トンはあろうかという巨大な竜山石である。題字は熊本藩主細川家第25代当主の細川護貞氏によるものである。この米田村説が説得力を持っているのは、武蔵の主家に認められているというだけではない。武蔵・伊織の後裔である宮本家公認の説なのである。
宮本家13代当主の宮本信男氏の揮毫によって「田原・宮本家父祖の地」と刻まれた石碑が同地に建てられている。その根拠はご当主の所蔵されている「宮本家系図」である。宮本家は田原氏の流れを汲み、田原氏は播磨の名門赤松氏の流れを汲む。『BanCul』2003年冬号(特集:宮本武蔵の真実)の連載記事「時遊地在 播磨史の現場を行く」に、次のように記述されている。
(田原)甚右衛門家貞には、二人の男子がいた。兄が久光、弟を玄信といった。
久光は田原家を継いだが、玄信は、美作の平尾無二之助の養子となった。平尾家は、田原の縁戚に当たり、そのころは美作・竹山城主の新免宗貫の家臣だったが、抜群の働きで城主から新免姓を名乗ることを許されていた。後に、その居住地である宮本村からとって、宮本姓を名乗るようになった。
宮本家に入った玄信も、当然のことながら宮本姓を名乗り、ここに、赤松-田原の血を受け、宮本武蔵が誕生する。武蔵のルーツは、だから、高砂・米田である。
伊織は本家の久光の二男として生まれ、後に武蔵の養子となった。つまり、武蔵と伊織は叔父と甥の関係となる。小笠原氏家老となった伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654)に建てた「宮本武蔵顕彰碑」が、北九州市小倉北区の手向山公園にある。碑文中には次の文字を見ることができる。
播州之英産赤松末葉新免之後裔武蔵玄信号二天
また、伊織は承応2年(1653年)に加古川市木村の泊神社に棟札を奉納している。それには次のような記述が見られる。
作州之顕氏新免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信後改氏宮本亦無子而以余為義子故余今称其氏
美作の新免氏が子のないまま筑前秋月城で亡くなったので武蔵掾玄信が跡を継ぎ、後に宮本と氏を改めた。武蔵もまた子がなかったので私を養子とした。だから私は今でもその氏を名乗っている。
以上のような証拠から、武蔵は赤松氏の流れを汲む田原氏の出身で、その生誕地は田原氏の本拠のあった高砂・米田の地だというわけである。
ただし、論拠となる宮本家系図は弘化3年(1846)に宮本家8代目の貞章が記録したもので、一級史料としてはやや難があるとされる。また、伊織が直接関係する二つの文には、「田原家に生まれた武蔵」と明確に示されているわけではない。伊織の生誕地であることは確かだが、武蔵もそうだと言えるのか考える余地はありそうだ。
生誕地を示す碑の向かいに桜公園がある。桜が幹に可憐な花を付けていた。武蔵の時代の風景ではないのだが、桜を見つつ武蔵に思いを馳せると、充分に歴史のロマンを感じることができる素敵な場所であった。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。