「治水治国」水を治める者が国を治めるのである。水害から民を守り、灌漑によって大地を潤し、豊かな実りを得る。大は四大文明の母なる大河から、小はうちの近くの田んぼに水を引く用水路まで、水のコントロールが農業振興の基本原理である。今日は、村人から感謝されたお代官様のお話である。
高砂市美保里に「市丸廟」がある。
市丸又四郎の墓碑と顕彰碑である。覆屋があるためにきれいに保存されている。どのようなことをした人物なのか。『高砂市史』第二巻通史編近世には、次のように記されている。
また中島村に北条陣屋詰代宮市丸又四郎の顕彰碑があることも注目される。中島村が丹波川(加古川)の水害を度々受けるのを目撃した市丸は、享保元年(一七一六)に川除堤に竹林を植え、鎮護のため弁財天と稲荷を勧請した。その後水害を免れたため、市丸の死後の享保六年に中島村の村人がそれに感謝して碑を建てたのである。現在も高砂市美保里には市丸廟の額が掲げられた堂と竹嶋神社・弁才神社があり、堂には市丸の事績を記した碑文と「恵光院浄慶」と記された墓碑が納められている。
市丸廟の周辺は住宅地になって少々分かりにくいが、地図を見ると加古川には確かに近い。高砂市が作成したハザードマップでも浸水が想定される地域となっている。ただし、廟や神社がある緑地はやや高く、かつては堤防の一部だったのかもしれない。
市丸又四郎は小田原藩の代官である。ここ中島村は貞享3年(1686)から小田原藩領となった。大久保忠朝の小田原入部に伴う措置のようだ。陣屋は現在の加西市北条町北条にあった。小田原藩は元禄16年(1703)の元禄大地震、宝永4年(1707)の富士山大噴火、その翌年の酒匂川氾濫によって甚大な被害を受ける。
そうした小田原藩の経験を市丸が飛地領で生かしたのかもしれない。災害列島日本においては、安全と安心に対する先人の努力をもっと高く評価してよい。善政の本質は防災である。
てっちゃんさま
ご教示ありがとうございます。住宅地の中に残された貴重な緑の空間であり、地域の歴史の語り部のような場所だったと記憶しております。若い方々も歴史を学ぶことをとおして、地元のよさを実感してもらいたいものです。
投稿情報: 玉山 | 2018/12/05 22:08
この市丸廟は既に宅地化され、高台は削りとられ大きく様変わりしています。
樹齢300年のイチョウの木も無残に切り刻まれているのを目の辺りにし、地元自治会に抗議に息ましたが後のまつりでした。市丸廟は近くの墓地に、稲荷神社と弁財天神社は近くの大歳神社に移設されています。
投稿情報: てっちゃん | 2018/12/05 12:41