再来年の大河「鎌倉殿の13人」が楽しみでしょうがない。テンポのよい展開で画面から離れられなくなる三谷作品だ。主役の北条義時を小栗旬さんが演じる。昔々に「草燃える」を見ていたので、頼朝死後のドロドロした権力争いには多少の知識がある。この時の義時役は精悍な松平健さんだった。今度は平清盛役だという。
「草燃える」では後鳥羽上皇も登場したが、今回も出てきてくれるだろうか。いや、この強烈な個性を放っておくわけにいかないだろう。本日は上皇ゆかりの古跡を扱うが、都から遠く離れた美作の地でのご案内である。
津山市神戸(じんご)の作楽神社駐車場の隅に「女院塚」がある。
「塚」と言っても、こんもりとした土盛りはなく石碑があるばかりだ。石碑の基壇には土が詰まっているようだから、これが「塚」なのだろう。ここ作楽神社は後醍醐天皇の白桜十字詩の故事で知られる。つまり隠岐配流の道筋に位置しているわけだ。後鳥羽上皇も当然この出雲街道を西へと向かったことだろう。碑文を読んでみよう。
女院塚
通称 女院ぐろ。後鳥羽上皇が隠岐に御遷幸の途次この地で病歿された寵妃姫法師を葬った塚である。
現在地のやや北東にあったのを平成十一年に移転した。
女院塚保存会 代表日原桜道
女院とは皇后や中宮、准后など、院に準ずる待遇を受けた高位の女性である。後鳥羽上皇の中宮は、有名な九条兼実の娘任子で「宜秋門院(ぎしゅうもんいん)」という院号を宣下された。また、上皇の子である土御門天皇の生母は「承明門院」、順徳天皇の生母は「修明門院」である。
この女院塚はそこまで高位の女性ではなく、寵妃「姫法師」を葬っているという。「伊賀局(亀菊)」という白拍子に対する寵愛が承久の乱のきっかけになったくらいだから、隠岐配流に寵妃同伴していたとしても不思議ではない。調べてみると、同じく白拍子らしき「舞女姫法師」が、寺に入った覚誉、道縁、道伊という三人の子を産んでいる。やはり姫法師の塚なのか。説明板も読んでみよう。
第八十二代の天皇、後鳥羽上皇が隠岐に流される途中(一二二一年)、お供をしていた寵妃(ちょうひ)がこの地で病気になり、薬石効なく亡くなられ、これより五百メートル程東北の田の中ほどに葬られました。この事は女院ぐろとして津山の史書に記されています。長い年月のうち周りの田園は持ち主が変わり、このままでは御祀りできなくなると、これを深く憂えた当地で生まれた京都の日原桜道氏の発願で碑を道路辺に建て祀られていました。(平成八年)。しかし、諸事情によりこの地に移設され、ここで沢山の方々にお祀りしていただけるようになりました(平成十四年)。
「薄幸の女性を慰霊することは神道では逆境からの脱出、開運の道である」と言われています。
女院塚保存会
ここでは寵妃の名が記されていない。ただし、「津山の史書」に「女院ぐろ」と記されている、という情報は貴重だ。津山の史書と言えば、津山藩が編纂を命じた『作陽誌』が有名だ。調べてみると、次のような記述が見つかった。『作陽誌』西作誌上巻苫西郡古跡部神戸郷より
女院墩(ニョイングロ)
標石東田間堆出名女院墩不知其由近来植松為標
しるしとなる石が東の田の中に積まれ「女院ぐろ」と呼ばれている。その由来は分からない。近年しるしとして松が植えられた。
なんと宜秋門院さまはおろか、姫法師ちゃんさえ登場しない。ただ女院という名が伝わるのみである。本当に姫法師を葬ったのか、ロマンという美名に包まれた妄想なのか。
ただ、隠岐への道は新幹線と特急やくもを乗り継いでもけっこう時間を要する。ましてや中世の出雲街道を歩いての旅だから、途中で体調を崩す人もあっただろう。旅の途中で亡くなるという話も珍しくなかった。
かつてあった石積みの塚は、何らかの慰霊のために築かれたのだろう。それを後鳥羽上皇や後醍醐天皇から連想して「女院」と呼ぶようになったのではあるまいか。いや、それでも本当に同行の女官が葬られたのかもしれない。むしろそう思いたくなるのが歴史に期待するロマンなのである。
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