刀は武士の魂であると言われる。確かに武士が刀を持たねばただの人だが、そんな見た目の問題でもあるまい。昨今の刀剣ブームを見れば、やはり魂を揺り動かす何かがあるのだろうと思う。刀身の煌めきだろうか、切先の鋭さだろうか、それとも刃文の妖しさだろうか。
現代人にとって魂のアイテムは何か。刀を持つのが武士であるならば、スマホを持つのが現代人だろう。スマホがないと不安になるのは、魂を置き忘れた証拠に違いない。そう考えると、「廃刀令」が武士に与えた衝撃の大きさが分かるような気がする。
津山市神戸(じんご)の作楽神社前に「道家大門(どうけひろかど)歌碑」がある。
孫にあたる方によって昭和十六年に建てられた。上部の「立徳立言」の文字は元首相の平沼騏一郎の書である。これは『春秋左史伝』巻十七襄公二十四年の一節「大上有立徳、其次有立功、其次有立言」に由来するのだろう。徳を立て言を立てたという道家大門とはどのような人で、どんな歌を詠んだのか、説明板を読んでみよう。
この碑は、作楽神社の祠官であった国学者道家大門(旧津山藩士、万葉調歌人、一八三〇-一八九〇)が、明治初年の廃刀令に悲憤のあまり詠んだ「弓とらず太刀さへはかずなりにけりかがしのまへをゆくもはづかし」という歌を刻んだものである。当社南方の墓域内にあったが、昭和四十六年に邸宅あとのこの地に移転した。
院庄史蹟保存会
道家大門は、津山藩士の遠藤家に生まれ伯父の津田家の養子となり、後に「道家」と姓を改めた。国学を平田篤胤の婿養子銕胤(かねたね)に学び、明治二年(1869)に後醍醐天皇と児島高徳を祀る作楽神社を創立、初代の祠官となった。
山縣有朋の建議によって廃刀令が出されたのは、明治九年(1876)のこと。明治六年に徴兵令が施行、翌七年には警視庁が設置され、軍事警察部門としての武士(士族)階級の存在意義は失われた。当然、武器の携行も必要がないばかりか、危険ですらあった。廃刀令の条文は次のとおりだ。
自今大礼服着用竝ニ軍人及ヒ警察官吏等制規アル服着用ノ節ヲ除クノ外帯刀被禁候条此旨布吿候事
但違反ノ者ハ其刀可取上事
これからは大礼服を着用する場合、また軍人や警察官が既定の服装を着用する場合を除いては、帯刀することは禁じられる。このことを布告し、違反する者は刀を取り上げることとする。
しかし、どのような変革にも反発はつきもの。国立国会図書館デジタルコレクションで調べると、明治末に発行された『近世偉人百話』(至誠堂)で次のようなエピソードが見つかった。
利秋廃刀令を論ず
明治の初、政府将に廃刀令を発せんとす、利秋大に其の不可を論じ曰く、日本刀は我が御国の魂にして、維新の大業の如き皆な日本刀の光輝たらざるはなし、然るに今之を廃するは何ぞやと、口角沫を飛し、議論風発、勢近づくべからず、時に大山巌新に欧州より帰り坐にあり、徐ろに謂って曰く、半ドンオハンハ日本刀日本刀と云はるれども、チブラルタリーの海峡を通るには、日本刀ナンカ何の役にも立チマセンゾと、利秋笑って止む。
刀は武士の魂と主張する桐野利秋を、欧州帰りの大山巌が「ジブラルタル海峡を通るのに、日本刀なんか役に立ちませんぞ」とたしなめている。そりゃそうだ。国際感覚の備わった大山の言う通りだろう。
しかし人はそう簡単には変われない。長年誇りとしてきたものが失われてしまうのである。アイデンティティの崩壊につながりかねない。道家大門は丸腰では案山子の前でさえ恥ずかしいとまで言っている。
利秋は西南戦争で武士として散ったが、大門は神官として後醍醐天皇と児島高徳の顕彰に努めた。高徳が体現した忠義心は、天皇中心国家における最も必要な国民道徳として大いに喧伝された。廃刀令に憤慨した大門は刀を手放しても、武士の魂である忠義の心を忘れることはなかったのである。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。